マッドマックス 怒りのデス・ロード



とても面白かったけど、これ以上望むべきものは無いはずなのに、飲めば飲むほど喉が乾くような、わあ、映画ってこんなに面白くなるんだと思いつつ、燃え尽きはしないというか、そういう感じだった。映画館でのこんな体験、初めて!という感動が見ているうちに薄れていくのは、「慣れた」からだろう。これからは、あそこまで行きつかない映画はつまらなく感じるだろう。


マッドマックスシリーズで最初に銃を持つ女は、一作目の「母子を守る老女(今の感覚では老人という感じはしないかな)」だったけど、本作でもそうだった(しかも向ける相手が25年を経て同じ役者!笑)本作が「女性映画」だという前評判につき、これまで出てきた女性達も「普通」に描かれてたからあれで十分と思ってたけど、見てみたら、ここまで「女性映画」にする意味は十分あると思った。大勢の内の一人じゃなくヒーローが女性であるという感動は、他の感動とは換え難い。それが世の中を変えていくんだと思う。
「鉄馬の女達」がかっこいいのは「当たり前」、あれが男ならかっこいいんだから女でもかっこいいに決まってる、そういうことは、しっかり大きく示さないと分かってもらえない。


フュリオサは奴隷の焼印が押された首から登場するが、イモータン・ジョーの5人の妻が揃って登場する時も、水浴びの後に撫でつけた髪の脇からやはり焼印が見える(この映画はこういうところが本当に上手い)。彼女達の「希望に賭けた」逃亡について、武器将軍、すなわちジョーをbrotherと呼ぶような同類の男は「たかが痴話喧嘩」と片付ける。「いい暮らし」をしてりゃ奴隷じゃないと思う人が大勢いる。現実と重ね合わせてぞっとした。
彼女達が集まって騒いでいる様子はいわゆる「ガールズムービー」ぽくて楽しい。砂漠の夜の場面には、権力差が無い場(厳密には二人居れば発生するというのはさておき)における「美」とは本当に自由で善いものだと考えた。美とは見る人の内にあるということが徹底されれば(権力を持つ者は大抵それを内におさめておかない)、見る者も見られる者も自由になる。勿論、誰もがその両方である。


フュリオサを演じるシャーリーズ・セロンの登場時、まだ顔しか映ってないのに、あの目を見ただけで、例えば映画にかっこいい女が出てくると(「男」にしか性的興味のない私が)「抱かれたい」なんてあえて表現したりするものだけど、ああいう人間が出てくると、ただただ胸がいっぱいになり、一緒にこの世を生き抜きたいとでもいうような思いが心に浮かぶものだ。
マックス役のトム・ハーディが冒頭、マスクを取るのに一生懸命な様子には、間抜けさを振り掛けた寂寥感とでもいうようなものがあり、メル・ギブソンには無い味を感じた(尤も私も3作目までは「リアルタイム」で見てないから、当時のメルギブの「味」は知らないけど)彼がフュリオサに運転席から銃を手渡し、ついに台座として肩を貸す時にはぞくぞくした。


「ウォーボーイズ」の一員を演じたニコラス・ホルトも素晴らしかった。スプレーよりも人の手で触れられたい…と感じるのならば、触れた方だってそれを感じているかもしれない。
昔から、007シリーズなんかを見ると、悪の手下達は何をあんなに必死に戦っているのか?自分の命が第一なのにと思ってたので、下っ端軍団にこそ理由があるというのはいい。全て描かなくても想像出来るという向きもあるかもしれないけど、女性が「普通」であったり「ヒーロー」であったりするのと同じように、創作物には強調すべきものがあると思う。