マッドマックス フュリオサ


逃げられないよう男が付けた鈴に男が欲情を募らせるとは纏足みたいだと思う。フュリオサ(少女時代をアリーラ・ブラウン、長じてアニャ・テイラー=ジョイ)は物語の序盤にその髪を切って逃げ、終わりにその髪が立てていたのと似た音で鈴を付けたディメンタス(クリス・ヘムズワース)に自身を追わせる。種を隠す目的のためならもっと短くて済む髪を彼女が伸ばしていたのは、鈴を付けない自由への活動のようだとも思う。また『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)のフュリオサ(シャーリーズ・セロン)は首の後ろの奴隷のしるしから登場するが、本作の、彼女が作中二度目に髪を切るくだりを見ると、あれを露わにするのは、奴隷なんて嫌だろ?と言って丸め込んだ人々を奴隷にするディメンタスへの抵抗のようでもあった。

「オーストラリア目線のオーストラリア」に始まるこのオーストラリア(とアメリカ合作)映画の最中、『ニトラム』(2021年ジャスティン・カーゼル監督)を見た時の、主人公を圧しているのはクリス・ヘムズワースのイメージのような「オーストラリアの青年」の表象かもしれないと考えたのをまた思い出した。イモータン・ジョーを演じるラッキー・ヒューム始め他にもオーストラリアの役者が多々出演しているけれど、ヘムズワースがこれまでの悪役とは違い素顔に近い姿でディメンタスを演じているのにはリアルな男性を描く意気込みのようなものを感じた。私達が彼に感じる滑稽さはその外観ではなく言動によるものである。ラストのフュリオサとのやりとりからは、彼が違う道を選んだ「マックス」(かつてメル・ギブソンが演じたマックス)だったことが分かる。

アクションは面白く見たけれど、2章以降しばらく映画がフュリオサからすっかり離れてしまうのには違和感を覚えた。女性問題と言われるのは実際は「男性」問題だろうというのは確かにそうだけど、そりゃあ彼女は目を見開いて男達の争いを見ているが、特にディメンタスの描写にばかり力が注がれておりこれは何か違うなと思う。ジャック(トム・バーク)とのくだりも、「恋愛」の介在しない男と女の関係を描くためには男と女を出さなきゃならないというのは確かにそうだけど(しかしディメンタスは男と女が親身ならばその関係は「恋人」でしかないと思っている)、前作の「マックス」(トム・ハーディ)程度に留めるべきで、「おれが連れて行ってやる」だなんてこれも何か違うなと思う。どうも掘り下げどころの間違いでタイトルに反し女性より男性の映画になってしまっている感があった。