ハロルド・フライのまさかの旅立ち


サム・フリークスで観賞の叶った『とても素敵なこと 初恋のフェアリーテール』(1996年イギリス)のヘティ・マクドナルド監督が映画化を手掛けると知り読んだ小説『ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅』(2013年レイチェル・ジョイス)で印象的だったのは、ビール工場の経理部に初の女性社員として入社するも「かわい子ちゃん」ではないため笑いものにされ泣いていたクウィーニーにハロルドが思わず手を、掌を上にして差し出してしまい、彼女もそれを取ったという場面。映画で二人の関係の始まりが省かれているのは「彼女は友だちだった」というハロルド(ジム・ブロードベント)の言葉で十分だからだろう。彼が本来は医者であるマルティナの話を聞きながら手を出し、彼女が握り返す場面が強調されていたのは、「それ」が今なお彼の中に生きて世界に広がり続けていることを語っているんだろう。

(脚色といえば、街で見かけて息子のデイヴィッド(アール・ケイヴ)だと思った青年が「デイヴィッドではなかった」と気付く場面を省略する一方、彼が首を吊った姿をはっきり見せるのも大胆なやり方だ)

映画化によって物語を違うふうに見ることができる。「スニーカーを舐める」銀髪の紳士がティーケーキを分けてくれる、いや分けてくる時、人には「食べ切れない」ものがあるのだと文章からは思わなかったことを思う。ハロルドが幹線道路の脇の歩道を一人ゆく姿には、世界には違うレイヤーの存在とでもいうような未知の部分があると思う(彼がそこへ足を踏み入れるまでを手際よく見せるアヴァンタイトルは『とても素敵なこと』の冒頭を思い出させた)。やがて追随する人が増え日に2キロも進めなくなるとハロルドは「これは何か違う」と思う。他者の姿から未知の世界を学んでも安易に共有できるものではない、なぜだかこのあたりに監督らしさを感じてぐっときた。

原作小説はパートナーと生きるとは絶え間ない運動なんだという話に私には思われた。ハロルドが旅に出てモーリーン(ペネロープ・ウィルトン)から離れるごとに二人の関係が躍動する、そんな再生の仕方もある。時間の限られる映画では彼女の心の内や言動は殆ど語られないが(小説では二人ともが大変に意識している客間と寝室の件など、映画では描写がささやかすぎて見た人に伝わらないだろう)、先に書いた「手と手」を強調したラストシーンは悪くないと思った。彼女への隣人レックス(ジョセフ・マイデル)の「気が付いてたよ」には作中一度だけ少し涙が出てしまった。同じことを繰り返しているだけに見える暮らしの中にも「心」がある。