ハロルドとリリアン ハリウッド・ラブストーリー



公開初日に観賞、楽しく見た。
1950年代から2000年代のハリウッドにおいて何百本もの映画製作に関わるもほとんどクレジットされていない「最強の秘密兵器」、絵コンテ作家のハロルド・マイケルソンと映画リサーチャーのリリアン・マイケルソンについてのドキュメンタリー。


映画の柱はリリアンのインタビューである。ハロルドにプロポーズされた時に「まず一緒に暮らしてお互いの気持ちを確かめてみる?」「うまくいかなかったら離婚しましょう」などと確認したというエピソードに実際的な人なんだなあと思っていたら(対してそれに怒り心頭だったというハロルドはロマンチックな人だ)、終盤の「環境に恵まれなかったから生きるために戦うしかなかった」とのセリフに見てきたはずの彼女の人生が違って見える、こんな作りが上手いといえば上手い。「駅に着いたら知らない男性がリリアンと呼んだ」…あのエピソードをラスト近くにもってくるのはずるい(こんなふうに最後に「始まり」をダメ押しする映画、最近多いね!)


リリアンのインタビューで印象的なのは、「昔は今のようじゃなかった」という語り口が多いことである。17才の頃には男と女は対等だと思われていなかった(「だって対等なのよ?」)、妊娠が判明したら会社を解雇された、自閉症の息子を心理学の先生に見せたら傷つけられた、などなど。それらは足並みを揃えてではないが、少しずつ良い方に進んで行く。彼女は「そうしたこと」をもろに体感するような人生を歩んできたのだ。


このことは、作中語られるハロルドの人生においては…尤もリリアンの言う通り「私達はチーム」なのだとすれば、リリアンのそれだってハロルドのそれだったんだろうけど…例えば絵コンテ作家の立場の変わりようである。最初に掴んだ大仕事の「十戒」では何千枚もの絵コンテが使われたのに職業の存在が秘密にされデミルに会えもしなかったのが、ヒッチコックに直々に乞われて「鳥」に出向き(始めヒッチコックは彼の絵コンテを使わなかったというのが面白い、「格が違った」というわけだ)、トランボの「ジョニーは戦場へ行った」で美術監督として場を統括することになる。2000年代には「国王と女王」として夫婦で映画に登場もする。


絵コンテには二つの役割があるそうで、そのうちのより実用的な方については、冒頭ダニー・デヴィートが「鬼ママを殺せ」を例に説明してくれる。ポーチを撮る時に奥の部屋はどのくらい映るか?というのが絵で分かるんだからすごい。ハロルドは「大統領の堕ちた日」のクライマックスを例に「映画は見ていないけどこの通りに撮ればすごいシーンだろう」と言うので、案外多忙で映画を見ていないのかなと思いきや、「卒業」について映画研究者は「(ハロルドは)フェリーニヌーヴェルヴァーグの映画を見ていたんだろう、最先端の技術が使われている」と話す。


出てくるどの映画も見返したくなるけれど、一番はやはり「卒業」である。作中多くの人がハロルドにつき「監督と同じ見方が出来る」と言うんだけど、この映画についてハロルドが語るには、マイク・ニコルズから「この小説、すげー笑えるから読んでみて」と原作を渡されるも夫婦共になぜ笑えるのかさっぱり分からず、「彼と僕とは見ているものが違った」ままで作られたんだそう。「彼(ニコルズ)には独特のユーモアと間の取り方がある」「セリフにどんな意味を持たせるかは監督次第」。それが「映画監督」の仕事かと思うと、明日からのどんな映画も見方が違ってきそうじゃないか。


マイク・ニコルズといえば、「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」のリサーチを担当したリリアンが「小さなテーブルが闘いの場になった」と語る字幕、誰の闘いなのか聞き逃したのが残念(マーサなのかリリアンなのか?普通に考えたらマーサなんだろうけど)