ロスト・エモーション/スイッチ・オフ


「未体験ゾーンの映画たち 2017」にて観賞。 監督やキャストに惹かれて見た二作だけど、ラストシーンには少し通じるところがあった。



▼「ロスト・エモーション」(2015/アメリカ)は、ドレイク・ドレマス監督によるSFもの。ニコラス・ホルトは「目覚める」男が似合うな、と思う。クリステン・スチュワート共々、顔に赤味が差していく感じがうまく撮られていた。
すごく面白いとは思わなかったけど、「感情」を持った人間は同じ「感情」を持った人間に惹かれる(「お人形」には惹かれない)という設定は、人は一方通行じゃない関係を求めるのだと言っているわけで、「真実」がどうであろうと、私はそういう「優しい」物語が好きだ。


オープニング、近未来の管理社会において、ニコラス演じるサイラスが、タッチパネルを指やペンで操作するのに左手、絵を描くのに右手を使っているのが気になり、私も同じなんだけど、あのような世界でもそうなり得るんだと考えた。あるいは何か利点があるのだろうか?
また「患者」のちょっとしたものの言い方、例えばジョナス(ガイ・ピアース)がべス(ジャッキー・ヴィーヴァー)の名を口にして「たしなめ」ようとしたり、ニア(クリステン・スチュワート)が診察台で「感染してる?」と腹をくくってみたりといった、ああいうセリフは、あのような世界では「特別」な意味を持つので、耳をそばだてて聞いた。


冒頭の「薬が効くまで六時間」に予感がしたものだけど、終盤の展開には、いわばメモリを抜かれたロボットとの「愛」(彼らは教育機関においてこの言葉をどう学ぶのか?)に挑むという、まさに「二人」の問題が立ち現れて面白かった。すぐ解決しちゃうけど(笑)
「病気」であると他人にばれたために自分のカップに名前を書かねばならないという、初めてのいわば差異(彼らに文字を書くという機会はこれまで他にあったのだろうか?)や、「私たちが『普通』なんだ」と話し合う「サポートグループ」、なんてのも面白かった。しかし例えば「カップへの記名」はその後の展開のためのもので、そうした面白がり方をするためのものでは恐らくない。万事につきそう思わされる映画だった。


▼「スイッチ・オフ」(2015/カナダ)は大好きだった「キット・キトリッジ アメリカン・ガール・ミステリー」のパトリシア・ロゼマ監督による、これもSFもの。原作のジーン・ヘグランド「森へ 少女ネルの日記」は未読。小説の方にはもっと色々描かれているんだろうと想像してしまう(そういう想像が出来るという面白さを備えた、とも言える)類の映画だった。


停電が始まった際、ネル(エレン・ペイジ)は父(カラム・キース・レニー)と姉エヴァエヴァン・レイチェル・ウッド)の名を呼ぶが、どちらも消えた電気を点けようと「on」「on」とやっており返答しない。今の私にはむなしい命令にも聞こえるが、声での「switch on」をしない自分には分からないけれど、慣れればそんな意識は無くなり、ただ言葉を発するだけになるのだろうか、と考えた(終盤のエヴァの「人間が電気を使ってたのはたかだか…」てなもんだ、慣れなのだ)


姉妹が父親を埋葬するくだりで映画に引き込まれた。洗面台に流れる、父親のものと自分のものとが混じった血。あの状況になってからの何よりも、家族を葬ることの「初めて」度合いは大きいだろう。見終えて振り返ると、これから二人が自らの手で生死に触れていかねばならないことを示しているかのようだ。


女性映画ならではの描写がふと見られるのも良かった。ボーイフレンドとセックスをしたネルがトイレで腰を下ろして下着の血を認めほっとする様子や、エヴァが襲ってくる男に(習得したとはっきり分かる)防護術で抵抗しても効かないくだりなど、いや、そうじゃない時もあるんだろうけど、何とも「リアル」で。


この物語は、今の私、あるいは今の世界の人々には残酷なことを描いているようにも思われた。家族だからといって愛は生まれないが、家族だからゆえの愛、と呼ばれるものは存在し、それは非常時には役に立つ、換言すれば生きるよすがになるものなのである。はるばるやって来るイーライ(マックス・ミンゲラ)は、もしかしたら家族を失い、新たに作りたくて、でもいわば順序が逆だから怖くて、「試す」なんてことをしたんじゃないだろうかと想像した。


「キット・キトリッジ」(演:アビゲイル・ブレスリン)はツリーハウスの隠れ家を持っていたものだけど、本作のエレン・ペイジも「木」の隠れ家を持っている。これと対になっているようにも思われるのが、物語の最後に姉妹が火を放つ、二人が育った家である。この建築物の全面の窓ガラスと、ネルがエヴァの出産を控えて「木」の入口に立て掛ける板とも対になっているようだった。