ラビング 愛という名前のふたり



虫の音に始まるからというわけじゃないけど、始めのうち映画「沈黙」を思い出していた。結婚せず同棲してりゃ済む、故郷を出てワシントンに行きゃ済む、「妙なことにこだわらず楽な道を選べばいいだけ、簡単だろ?」と世間は言うわけだ。逮捕されたリチャード(ジョエル・エドガートン)が何度も「おかしい」と口にする法律の下で「自分は有罪です」と認めることが踏み絵に、「hey, boy」と彼を呼び止め「お前はかわいそうなやつだ」と哀れんでみせる保安官(マートン・チョーカシュ)が井上筑後守にあたる、とでもいったところか。


この映画は結婚の原点をベッドルームに置いている。リチャードは新居の設計図を引く時、まずその場所をミルドレッド(ルース・ネッガ)に相談し(彼女は「任せるわ」と返す)、しっかりと書き入れる。映画はその家が建てられ始めるところに終わるが、それまでだって、二人は結婚許可証を枕元に掲げて眠り、「歴史的な裁判」の日も「いつものよう」に過ごし寝室に還る。最後に示される文章は、ミルドレッドが一人になった後も生涯そこに眠ったことを教えてくれる。


リチャードが「夕飯(夕方)までに帰る」と仕事に出ていくのも心に残った。ワシントンに越してミルドレッドが枯れ草にがっかりした翌朝も、農場に越して久々の光と緑に癒された翌朝も、彼女に対してそう言って出て行く。二人にとって「夕飯までに帰る」のが結婚の宣言であり実行なのだと思う。勿論それは全ての人々に通じるわけではない。どんな創作物もそうだとも言えるけど、これはより強く、何かを語るための物語である。ミルドレッドが「都会では子育てが出来ない」と考える時、この映画は都会で子育てが出来ないということを言っているわけではない。


面白いなと思ったのは、テレビの中に見る「社会」は自分と関係ないと思っていたミルドレッドがちょっとしたことから手を伸ばしてそれと繋がると、「誰にも見つからない」であろう農場に引っ込んでいても、多くの人との関わりが出てくること。時代の移り変わりのようなものも感じた。「世界の末端にこそ世界がある」ということを皆に知らせるための仕事をしているLIFE誌のカメラマン(スペシャルゲスト:マイケル・シャノン)もやってくる。家族以外と進んで関わろうとしないリチャードが、食卓での彼の話に弾けたような笑顔を見せるのが印象的だった。不器用な彼は、自分の解放の仕方を知らないのだと思った。


冒頭でリチャードが依頼する地元の弁護士は、登場時にはジョージ・ケネディに見えた(笑/場面が換わると別人、見覚えのある顔だ)。彼はいい人だが「旧時代」のいい人である。対する若い二人が、やがては最高裁に続く階段の下で「憲法を変えられるかもしれない」と話す時、アメリカの誰もまだそのことを知らないのだと思いどきどきした。こうしたことをやってのける性分が、他人のオフィスを借りたり「型破りな」案を出したりというのでうまく描かれている。この映画の面白いのは、愛し合う二人の物語であるのと同時に、人々の手によって世界が変わってゆくさまをさり気なく見せてくれるところだ。