アドリフト 41日間の漂流


「最終的な目的地はない、家へ帰るつもりもない、仕事は旅費が稼げればいい」と生きていたタミー(シャイリーン・ウッドリー)がひょんなことから現在地のタヒチから故郷のサンディエゴに戻ることになる。発つ前に認めた母親への手紙にいわく「ボーイフレンドを会わせます、運命の人だと思う、太平洋を渡れば分かる」。彼女にはそういう旅だった。

嵐に大破したヨットで目覚めたタミーはロープが外れているのを見てショックを受ける。その後に挿入される航海以前の描写では、タミーがサーフィンをする際のロープ、リチャード(サム・クラフリン)が自身のヨットのマストを見る際の命綱などの安全なロープ、足の着く楽しい水中のカットが重ねられ漂流後の対比となっている。

構成がとても上手い。船室のタミーに始まり「それまで」と「それから」が交互に描かれることにより、そろそろヨットが大破するという時とそろそろ漂流が終わるという時とが私達に同時に迫ってくる(尤もそうと分かるのは邦題に「41日間」とあるからだけども。どういう意図で付け加えたのか)。珍しい作りだなと思って見ていたら(ネタバレ)。

寝たきりのリチャードをヨットに残し命綱を付け海へ出ては戻ってくるタミーの姿に、「悲しみに、こんにちは(原題「Estiu 1993」)」の時にも過った、子どもは保護者を基地として冒険し世界を広げるのだという古典的な論を思い出した。彼女はそれまで母に頼ったことはなかったろう(本作には「母」しか出てこない)、でも今、彼がそうなのだと。作中ではリチャードがタミーを自身の母になぞらえるが、あれは実在するタミー本人の思い出を大切にしたのではと勝手に考えた。

タミーの「これが現実だと言って」が力強い。この漂流はもしかしたら夢で私は本当は死んでいるんじゃないか、それは嫌だ、幻なんか見たくない、現実を生きたいんだと。リチャードが答えていわく「君は生きている」。彼の「出会わなければこんなことにならなかった」に対する「思い出がなくなる」もそう、映画の終わりのタミー本人はその答えと繋がっているのだ。

作中通じてシャイリーン・ウッドリーがブラジャーを着けないのが印象的。女の下着とは着けていようといまいと意味を付与されてしまうものだし、着けていることによる自由も着けていないことによる自由もあるけれど、この映画では着けないことはただ、あるがままを表していた。