リトル・リチャード アイ・アム・エヴリシング


ミュージシャンよりも、リトル・リチャードを知っていた人や当事者などの「ファミリー」、加えて専門家が多数登場してその伝説をクィアネスを踏まえて語り直す内容。「怖がられないようクィア要素を強調するなんて奇妙に聞こえるよね」、後年伝道師に転換して「主は私の同性愛を治してくれた」などと言うようになったリチャードに対する当事者の「迷惑を被った」「気持ちは分かる」といった声、こうした複雑さを少しでも理解しようとする努力が今、必要なんだと思う。「自分の伝説を何度も書き換えた」背景に何があったのか。

「エルヴィスの次はパット・ブーンだ」と訴えるリチャードの顔から始まる文化盗用の…終盤専門家が言うには「抹殺」の話。逮捕されるとNegroエルヴィス・プレスリーなどと新聞に書かれ、「黒人のミュージシャンはチャートから消えた」と『のっぽのサリー』を歌うポール・マッカートニーとリチャードの映像が交互に映される。ビートルズが身体の一部である私はまずここで少々の居心地の悪さを覚えるけれど、それを体験するための映画である(更に私は別に白人じゃないというねじれもあるわけだけども)。自分は毎日ちゃんと、色んな意味での「通行料」を払っているかなと。

リチャードも笑い交じりに言っていた「通行料」は幾ら払っても払い足りず払い続けなければならない。死んでしまった人は映画に出られないから、君が創始者だと楽屋まで言いに来たエルヴィスのエピソードが語られたりナイル・ロジャースが「誰かの真似をしたいと言ってきたのは彼だけ」とボウイのことを話したりする。ボウイについては、そのスタイルにそもそも誠実さのセンスというのがあるんだと思う。また作中に使われている1988年グラミー賞の映像は当時リーゼント姿の別名でレコードを出していたデヴィッド・ヨハンセンが「おれの真似じゃないか」と言われるのに始まるけれど、ヨハンセンも真似でうまく遊んでいた人だよなと不意に思い返した(だからあそこで困惑させられて当然なわけ)。

リチャードが影響を受けたシスター・ロゼッタ・サープはピアノやギターを叩いて興奮を高めていくスタイルと語られていたけれど、インタビュー映像内のリチャードが家に祖父のピアノがあったけどおれは弾けなかったからめちゃくちゃに叩いてたと話しながらやってみせるのに、ピアノはやっぱり打楽器でもあるんだなと感動した。「五月雨」から始めた私はあんなの勿論やったことがなく、無性にやってみたくなった。パット・ブーンに真似されないようスピードを速めたとの言葉の後に改めて聞くボーカルで圧倒されたリチャードのリズム感あってのものだけども。子ども時代のエピソードとして、ピアノの音があんまりうるさいのでよくキッチンの窓から覗いたものだと近所の人が話していたのが面白かった。