バッド・ジーニアス 危険な天才たち



まずは最高の父娘ものだった。父が娘との関係をよくせんと頑張る映画が濫発されるのに辟易していたところだから、娘の側からの、変わらず父は素晴らしかったという物語を新鮮に感じぐっときた(変わらず素晴らしい母の話があるなら、父のだってもっとあっていいじゃないか)。青い鳥じゃないけれど、自分を負け犬だと思っていた主人公の傍にこそロールモデルがいたという。


テストには色々な目的があるが、ここではまず、グレースが「(相対的に)一定以上の成績を取らなければ演劇に出られない」、パットが「落第したくない(その心は「落第すれば新車を買ってもらえず嫌だ」)」と言うように、生徒を足切りし管理するものである。だからこそ主人公リン達の「商売」が成り立つ。彼女がカンニングを実行した最初の切っ掛けは、楽をしようとしか考えていなさそうな教員に、友達を心配する気持ちを「いんちきするな」と咎められたことである。


校長いわく、どの口での「学校はビジネスの場じゃない」。リンは成績(彼女はそれを自分の能力と努力の結果と捉えている)を認められたはずが父親が「賄賂」を払っていたと知り、取り返したく思ったのではないだろうか。「ここでやめたら殴られ損だ」というバンクもそう、貧乏人ほどお金にこだわらざるを得ない。グレースは初対面時にリンの髪を直し、眼鏡にこそ勿論触らないが口角を上げるよう言う。パットもバンクに口角を上げろという仕草をする。二人にとってはそうして過ごすことなんて当たり前、容易なんだろう。


終盤心を決めたリンの「大学入試はマークシートじゃない」との言葉のいわば真の意味に、グレースとパットはパーティの最中に遅ればせながら気付く。彼女は願い通り「リン先生の初めての生徒」になったわけだ。マークシートのクレジットで始まるこの映画は、まさにマークシートの時期、それでしか評価されない時期から抜け出すまでの物語だと言える。リンが異国で追われるスリラーは、深入りした彼女が陥った迷路にも思われた。


彼らは色々な形で「マークシート」から抜け出す(押し出される)が、下の世代はそれを繰り返す。そもそも「あなたなら国外で勉強できる」なんておかしな言い草だ、だって、じゃあ、この国の教育は何なんだ。リンの決意はそのシステムを一ミリでも変えようじゃないかというものである。尤もカンニングを仕切る彼女が当初、次第に堂々たる顔付きにもなるのは、システムへの反抗心というより負け犬の自分が利益を得る手段を持った喜びのように思われ、それも面白かったけれど。


私は「エリーゼのために」をリンと違って薬指から弾いていた。彼女がカンニングに使う曲は、ピアノ教室で習うというよりも子どもが楽しみのために弾く曲(楽譜を見て覚えるわけでも運指を先生に見せるわけでもなく好き勝手に弾いていたような曲)ばかりで、そこのところが妙に心に残った。