モロッコ、彼女たちの朝


カサブランカの旧市街。アブラ(ルブナ・アザバル)が営むパン屋はそのまま道に面しているし、鍵さえ開ければ近くの女性が家族のようにテレビのリモコンを借りに来る。家と街とは繋がっている(このあたり、少し前に再見した「シルビーの帰郷(HOUSEKEEPING)」がずっと頭にある)。しかしそれでも、家の中は安全な場所である、安全でなければならないことが、男達の騒ぐ声やそれに呼応する犬の鳴き声にアブラが戸外のサミア(ニスリン・エラディ)を呼びに行く場面に表れている。特に男手の無い家の女性にとって、ドアを開けるのにはいつだって一抹の勇気が要るものだ。アブラに思いを寄せる男性が言う通り、確かに彼女は勇敢な女性だ。
アブラがサミアを迎え入れた家の中ではドアが少し開けられ、互いに互いを意識しながら過ごすようになるのが印象的。咳き込めば水を持って行こうか?おやすみ、おやすみ、と寝床の中から声を掛け合う。ラストもそうなんである。

アブラの亡き夫がいつも掛けてくれたという「ワルダ」の曲をサミアが強引に流して聞かせる時、この映画のテーマが分かったと思う。一人では乗り越えられないことも、二人なら、狭義には大人の女同士が繋がれば乗り越えられるのだと。ただし、夫が死んでもう長いんだから前進しなきゃとか、男の方が若いといっても一、二歳の差でしょとか、所詮は他人だから言えるというのとそうでないのとの違いは何なのかと考える。付き添う覚悟があるか否かだろうか。
ラストに至り、自分は分かってなどいなかったと思い知らされる。この映画には女同士の連帯の素晴らしさと同時に、それだけではどうにもならない問題が社会にあること、その前では男のちょっとした優しさなど何の役にも立たないこと、女もその問題の強化に加担してしまうことが描かれているのである。

前日たまたま見た「100分 de 名著」の『戦争は女の顔をしていない』の回で女性の語りには身体性があるという話が出ていたものだが、この映画の冒頭でまずは一夜の宿を得たサミアが脇と下着を洗う場面などまさにそうである(さしずめその真逆が「裏窓」のグレース・ケリーのお泊まりというところか)。音楽とダンスのシーンも同様で、あくまでも(作中の)女が自分で感じる音楽、ダンス。だから体と心にくる。映画の終わりに驚くほど時間を割いて描かれるサミアと「アダム」の時間だってそうだろう。そしてそれを経ての彼女の変化こそが、監督の最も見せたい、私達につきつけたいものなのだ。