ミス・マルクス


エリノア(ロモーラ・ガライ)が今しがた聞いた彼の講演について熱心に語る内容には全く関心を示さないエドワード(パトリック・ケネディ)が、「(幼少時よりの愛称のトゥッシーでなく)エリノアと呼んでもいいかい」とキスをする。後に彼女は(「人形の家」のセリフとして)「私は父の手から夫の手に渡っただけ」と言うが、振り返るとこれがその瞬間であった。自身の意思が通用するのは渡るか渡らないかだけ、どちらに居ても管理下にあることに変わりなかった。

後にエリノアが演説で述べる理想的な男女のあり方は「おそらく一夫一婦制、二人が融合すること」。しかし、キスで繋がったように見えるエリノアとエドワードは…現在の女と男の多くだって…実は融合なんてしていない。「人形の家」のセリフにもあるように、全然「話」をしていないんだから。むしろ「話」をしないことによってその関係が保たれている。昔も今も、男と女の間でなされるこの類のキスとはそういうもの、そこから分断が始まるという矛盾のサインなのかもしれない。

話といえば、エリノアが労働者から聞き取りを行っている背後で、エドワードを始めとする男達が同じような者同士で固まって喋っているのが印象的である。エリノアは身近な女性達から彼女らのかなわぬ夢、あるいはかなえんとしている夢を聞くが(その多くは「自分だけの場所が欲しい」というものである)、作中の男女の間でそれはなされない。男達は、あるいは男と女は何を話しているんだろう?

白髪を染めながら動けないひととき、エリノアは本の中に父カールから母イエニーに宛てた手紙を見つけておそるおそる読む(なぜあそこに挟んであったのか?あれは父の手によるのだろうから、娘達の手紙が順序よく整理されていたことを思い返すと、父は娘は管理していたが自身は管理していなかったのだとも取れる)。彼女が号泣したのは、先に書いたキスに始まる矛盾がいわば爆発したからと私は受け取った。矛盾を呑み込んで生きる時、踏む方は余計に踏むことになり、踏まれている方は余計に踏まれることになる。愛していても踏まれるのは痛い。

ここには、結婚制度に依らずに誰かと関係を結ぼうとしても結局はその制度で損をしている側の者が別の形で損をすることになるという事実が描かれている。おしきせじゃない生き方を実践しようとすると、そこにもおしきせの基である差別による踏み付けが発生する。そんなことは既によくよく知っている。フィクションならばそれを再確認する以上の何かが欲しかったけれど、この映画にそれはなかったかな。「事実の隙間を埋める」タイプの映画であることの、「事実」部分が活かせていなかったかな。