浜の朝日の嘘つきどもと


「コロナがとどめだ」と言いながら誰もマスクをしていないのだから、これはそういう映画…映画ならマスクをしていない方がいいだろう、つまり映画ならそっちの方がいいだろうという要素で出来上がっている映画なわけで、馬と糞のオープニングから不自然なところは幾らもあれど余り気にならなかった。浜野あさひ/茂木莉子(高畑充希)と森田(柳家喬太郎)の「正しさだけじゃ割り切れない」「でも『これでよかった』にするために頑張らなきゃ」というような作中最後のやりとりには、正しさに依拠しないことをするなら努力も必要と言っているのだと受け取った(ただ対義語が色々ある上に昨今は使い方の難しい「正しさ」をどう定義しているのかいまいち分からず)。

たまたま上映前に同居人と、今の女性は腕時計をあまりしない、でも教員はすることが多いかもという話をしていたので、教員役の大久保佳代子が登場時に腕時計をしていたのが面白かった。彼女のファッションはどれも最高で、特に卒業後の浜野あさひが自宅を訪ねた際のキャミソールとカーディガンなど、確かにああいうのが流行っていたしいかにも着ていそうで笑みがこぼれてしまった。茂木莉子の纏うお洋服の数々の「映画」感も全然ありだけど、現実味もやはり欲しい。

一方で落語ファンには私服にしか見えない支配人役の喬太郎のファッションは本人に寄せているのか役どころに合わせているのか(でも少なくとも中のTシャツは「衣装」だろう)。うまいわけではない演技に例によって違和感を覚えながら見ていたものだけど、中盤の怪獣映画についての独り言で、いつもの(=高座の)喬太郎じゃん!と思ってからは単に喬太郎として見るはめになり、それ以降は全然よかった。不思議なものだ。高畑充希と芸人二人という組み合わせはバランスが取れていた。

しかし「嘘をつく」ことについて語る映画だとはいえ、日本語ネイティブの役者(佐野弘樹)が非ネイティブの外国人をよりにもよって「片言」で演じているのはかなりの難。日本語学習中(「片言」であることから察するにそうなんだろう)のベトナム人は文をああいうところでは決して切らないし、使っている文法や語彙が高度すぎる(「話す」とそれ以外の技術との能力の差が大きいとも考えられない)。非当事者が演じることに一万歩譲るとしても、もうちょっと、そういう人がどういうふうに喋るか作り手側に勉強してほしかった。失礼だと思う。