ダーティ・ダンシング


シネマート新宿にて観賞。私を映画好きにさせた一本、改めて最高だと断言できる。

冒頭、後部座席で本を読むベイビー(ジェニファー・グレイ)と鏡を見る姉のリサ。「赤い靴も持って来ればよかった」「10足で十分じゃない」との姉と母のやりとりに父(ジェリー・オーバック)が「世の中にはもっと悲惨なことが幾らもあるぞ」と言うのを受けて「僧侶の抗議の焼身自殺とかね」と付け足し山荘の「大人にはセックス」とのMCに苦笑いする17歳のベイビーの表情は、自分は既に物を知っているとでもいったふう。主人公が差別の実態に触れて世界を変えるために人生のスタートを切るという物語は、今見るのにも全然ふさわしい。

「探検してくるね」とベイビーがキャビンを出て飛び石をゆくところでテーマ曲がうっすらと流れ、ここから始まるんだと胸を熱くしていたら、彼女はジョニー(パトリック・スウェイジ)に遭遇する…前にまず、山荘のオーナーのエリート男子学生達を集めての「従業員を二つに分けた」「君達は女性客を楽しませてやってくれ、例え不細工でも」なんて言葉に二つの差別の実態を知ることになる。自分は「上」でもあり「下」でもある。

最後のステージでのジョニーの「ぼくを目覚めさせてくれた、『フランシス』です」。中盤ベイビーが「私だって怖い、ここを出たらもうこんな気持ちになれないんじゃないかと」と言うのと同じで、私も子どもの頃にはジョニーと会えなくなるのがとにかく悲しく、だって世界が違うもんと思っていた。でもこれはベイビーが(「初の女性長官にちなんでつけられた」「大人の女の名前だな」)「フランシス」になり、分断された世界を変えるために社会へ出て行く話なのだ。だから何度見ても元気が出る。

「女の客を楽しませるのが仕事」と言われているジョニーの、「明日はどうなるか分からない」「(ベイビーの「私は構わない、お金持ちの女の人を利用してるんでしょう?」に対し)「利用してるんじゃない、利用されてるんだ」なんて告白は、今にも通ずる女性のそれと被る。彼も次第に変わっていくけれど、一貫しているのは「求められない限り何もしない」というところで、これも女性の精神に通じる。Netflixオリジナルドキュメンタリー「ボクらを作った映画たち(The Movies That Made Us)」で、二人の女性が作り始めた本作はgirlyすぎると映画会社に全く受け入れられなかったと言っていたけれど、こういうところが理解できなかったんじゃないかと考えた。

山荘を抜け出すのに車を「拝借」しようとしたら鍵が掛かっているのでジョニーが窓ガラスを割ってのドライブ。ベイビーの「ワイルド!」で二人は初めて一緒に笑い合う。小さな世界である山荘の外に出てこそ心から楽しめるというのは示唆的だ(屋外でのラブシーンの魅力とは実はそういうところにあるのではとふと思った)。ダンスのレッスンやステージで笑い、はしゃぐシーンが多いのが、スクリーンで見ても素晴らしく心に残る。これはやはりドキュメンタリー出身のエミール・アルドリーノ監督の手腕だろう。

1963年を振り返る冒頭のナレーションに「パパが恋人だった」とあるけれど、アメリカ映画には「パパの車からボーイフレンドの車に乗り換える、それからどうする?」といった描写が時折見られる。この映画もまさにそう(誰の車を経由しなくとも別にいいわけだけども、その辺りはやはり昔が舞台の昔の映画)。ジョニーと夜を過ごしたと告白した後、湖畔のチェアに一人腰掛ける父の元を訪ねたベイビーが「パパも嘘をついてた、皆平等だって言ってたけどそうじゃなかった」「幻滅させてごめん、でも私も幻滅した」…この「パパの車から降りる」場面で涙がこぼれてしまった。対等な関係が生まれるシーンだから。

「ボクらを作った映画たち」(それにしても酷い邦題)では、脚本を書いたエレノア・バーグスタインが中絶の要素を削るようにとのスポンサーの要求を断ったとも話していたけれど、確かにこの映画では中絶が大きな柱だ(それが「girly」というわけだ)。ベイビーとペニー(シンシア・ローズ)の、後ろに付いて、向かい合ってのダンスレッスンは元より印象的だったけれど、改めて見ると二人の交流も細やかに描かれていた。ベイビーはまずロビーのクソさに怒りを表し、次いで父親に助けを求める。手術の翌日はまず彼女を見舞う。自分が出来る精一杯のことをする、それって大事だよなとシンプルなことを考えた。

物語は、社会の縮図である山荘で、皆が目の前にいる人と手を取り合って踊るのに終わる。この日に見るまで忘れていたけれど、フランシスとジョニーは途中で抜け出そうとするが、その理由である当の父に声を掛けられ(ジョニーは以前に「君のお父さんが声を掛けてくれる夢を見た」と話している)輪の中で一緒に踊るのだった。これがすてきだなと思った。