セイント・フランシス


まずは私の長年の思いに応えてくれる映画であった。生理や中絶は大ごとでもあるし大したことじゃなくもあると言ってくれていた。実際そうだから。それなのに私達はその都度どっちかに決めつけられたりどっちなのかはっきりしろと責められたりしてきたから(セックスにつき状況によって「減るもんじゃなし」「貞操観念があって当然」などと勝手に決めつけられるのと同様に。女の性を支配したいんだろう、面倒だから考えたくないんだろう)。
「子どもが欲しいと言えば欲しいかも、でもあれは私の子どもと思えなかった」なんてセリフが素晴らしい。この映画は全編通じてそういうことを言っている。脚本を書いたケリー・オサリヴァン演じる主人公ブリジットは、中絶後の「ただの血の塊かも」をジェイスに見せておきながら(妊娠の要因は彼にもあるんだから見せていいだろう)、タンポンを詰まらせたトイレを彼の友人に直してもらった後には逃げ帰る。何なんだと思う人がいるかもしれないけれど、そういうものなんだ、その時々で違うのが正解なんだ。私にはこれは、物事の境界をコミュニケーションと優しさで調整する話に思われた。

冒頭伝わってくるのはブリジットが縮こまって生きているということである。(後に分かることに)大学を一年で辞めて「レストランの給仕」をしていることや結婚していないことに引け目を感じ、自分を好きになれない。それを表に出した時の周囲の反応は色々で、最初にパーティでやりとりしている男には…「まだ先がある」若い女を「物にしたい」というのが透けて見える…こういう奴が彼女が後に口にする「社会の罠」を作ってるんだと思わせられるし、自身も給仕であるミレニアル世代のジェイスは全く頓着しないし、ナニーの面接で会ったマヤとアニーはブリジットの「弟は私と違ってちゃんとしてる」との言葉に顔を見合わせる、つまり、そんなふうに自分を卑下するなんてと思っている。かように様々で風通しがよい。
ブリジットは縮こまって生きてはいるが適当である。避妊は性器を引き抜いてもらうという方法で「これまで何もなかった」などと言い、(映画の観客の立場からは)登場数秒でそうと分かる嫌な男にセックス目的で近付く。フィクションの女性には未だあまり適用されていないこうした当たり前の要素の共存が描かれているのもよい。

母親から聞かされて「何でそんなこと言うの」と返したエピソードを後にマヤとの会話でブリジットがふと口に出す時、涙がこぼれそうになった。役に立つという言葉は好きじゃない、有機的というのも違う、何と言えばいいのか、人とやりとりしているとこんな瞬間があるという感じ。終盤ひょんなことから中絶のことを明かすとアニーに体を心配され泣いてしまうのもそれに近い。宗教に無知な私はこの感覚をSaintと捉えることにした。