スワンソング


ウド・キアー演じるパトリック・ピッツェンバーガーが高齢者施設を脱して息をする時、看板の文字にここはオハイオだったのかと思う。予告から遠くへ旅する話だと思い込んでいたら、彼は元々そこにいたのであった。すれ違う大人と子どもにハロー……続けてサンダスキーと町の名を口にすることから、土地とは人であり、パットは人から離れていたのだと分かる。掛かっていない鍵を開けて外へ出てみると、彼が誰だか知る由も考えもしない子ども達を始め行きつけだった店の跡、住んでいた家の跡に今いる人々は皆、彼を優しく受け入れる。

しかし奇妙なことに、ゲイカルチャーのただなかにおいてのみパットの居場所がない。かつてステージに立っていたゲイバー、ザ・ユニバーサル・フルーツ・アンド・ナッツ・カンパニーには彼を覚えている者も話をする相手もいない。彼自身、いや作り手の解釈によれば、マイノリティがマイノリティゆえに必要とした場はアプリなどの新しい手段が現れれば消えてしまう。マイノリティゆえの内部の分断というか非・継承とでもいうような寂しさがここにはある。しかしパットは思う、今や子育ても出来るようになったゲイのカップルはきっと、先人である自分の指輪にキスするだろう…感謝するだろうと。それが彼の求めているものであり、これは映画の作り手が「彼」にそれを贈る物語なのである。

ザ・ユニバーサル・フルーツ・アンド・ナッツ・カンパニーの最後の晩、先はアプリに吸いつけられていた青年が(悪意なんてないことはその時から分かる、彼にとって必要なものだからそうしているのだと伝わってくる)ステージのパットに歓声を上げるカットがこの映画の白眉と言える。その後に搬送された病院から今度は揚々と逃げ出したパットがスクーターに乗って車道をゆく姿の力の漲っていること。そして映画の終わり、彼は自身が「人のためになっていた」ことを十分知るのだった。始めに出た文章が蘇り、ゴージャスで優雅な「パトリック・ピッツェンバーガー」の写真と共に、マイノリティとして生きた先人への敬意と感謝に満ちた本作は幕を閉じる。音楽もエンドクレジットも素晴らしく、久々に劇場から去りがたかった。