ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期



ブリジット・ジョーンズを初日に見たがるなんて今どき私くらいのものだろうと思いきや、新宿の劇場にはもう席が無く、有楽町に出て日劇にて観賞。こちらもほぼ満席。


古い、全てが古い、でも超楽しかった。レネー・ゼルウィガー演じるブリジットの、スタジオ内で動き回ろうとするもヘッドセットのコードに引っ張られてじたばたしちゃう、なんてちょっとした姿がまるでこの映画みたいだと思った。冒頭、ダニエル(ヒュー・グラント)の葬儀において、彼の母親のために買って出るスピーチの内容と、席に戻る際のペンギンのような歩き方に、ああブリジット・ジョーンズだと思う。優しく愛らしい。


今回目立ったのは「政治」ネタのギャグの多さ。脚本に加わった、サシャ・バロン・コーエンと仕事をしているダン・メイザーの手によるのか、「誰も政治のことなど考えていない」というギャグがつるべ打ちされ、政治家は一言も喋らせてもらえず、テレビ局にやって来た若い上司はデマや動物虐待で視聴率を稼ごうとする。一方で「伝統的な家庭」をスローガンに村議会に立候補中のママ(ジェマ・ジョーンズ)は、そこから遠ざからんとしているブリジットに「今どきそんなんじゃそっぽを向かれる」と言われ、応援先をマイノリティーに変更。言われりゃやるけど言われなきゃならないという、愛らしい馬鹿がそこにいる。


ここまで馬鹿馬鹿しいおかげで、例えばマーク(コリン・ファース)に「お姫様抱っこ」されたブリジットが「フェミニストのデモ」と逆行するなんていう、どう考えても示唆的な絵面もあっさり受け流すことが出来る。でもここで「Up Where We Belong」が流れるからには、「愛と青春の旅立ち」の時代にはこのような男女に皆の拍手が贈られるが、今はそんなことはないという意味があるんだと思う。でもってデモも二人も双方、それでいいってことだと思う。


「新顔」のジャック(パトリック・デンプシー)とブリジットの場面はどれも素晴らしい。彼が彼女の家まで「二度目、三度目のデート」をしにやって来るくだりなど、私はこういうのが見たくて映画館に駆けつけるんだとつくづく思った。しかし更にぐっときたのは、ブリジットが彼に何事かを「打ち明ける」場面。「何かしてもらいたいとは思ってない」「あんなことをして恥ずかしい」、「いつかは好きになるかも」にはいずれもじんとしてしまった。ブリジットは素晴らしい人だ。


ジャックのような男は世にいるが、マーク・ダーシーは世にいない。女にとって都合がいいという意味ではなく、存在し難い。あんなに透視能力が欲しいと思ったことはない「ちょっと失礼」は、「ラブ・アクチュアリー」のローラ・リニーのアレの逆であり、この場面から、この映画に彼の心情描写は要らないのだということが分かる。とはいえマークの「心」なんて外から丸見えだ。教室で「ゲイのカップルと代理母」に勘違いされた時には一人だけ「実は…」、マッサージの際にはブリジットの背後で「『高齢』出産の場合には…」なんて言い出す。振り返ればいつも、彼は真に正直だった。どんな女にも「合う」わけじゃないけど、ブリジットは彼を「選ぶ」。


それにしても、洗礼式での「再びの再会」時に、子ども達との「江南スタイル」の輪から出てくる時のブリジットの笑顔の、当然噛み合わないやりとりと階段を上った部屋での「外れない」、その後のマークの作中初めての笑顔の、何て愛らしいこと。終盤、仕事中のマークを訪ねた法廷でブリジットが「あのかつらとコートにしびれる」としか感想を漏らさないのもいい。私だって正直そうだよ(笑)最後には、その手に老いの表れている、演じる役者の実年齢を合わせたら百近い、設定年齢もそれ位の二人が子を持ち結婚するというのが、そりゃあ呑気な話だけども、いいなと思った。


エマ・トンプソン演じる産婦人科医の「男が役に立つのなんてベビーシートを取り付ける時くらい」とのセリフと、ブリジットが締め出されたマンションのエントランスのガラスをぶち割るマークのコートを巻いたこぶしとは対になっている。トンプソンも魅力的に描きつつ、男っていいものですよ、というのをそんなやり方で伝えてくるような映画なんだけど、そうした描写が「ユーモラス」に思われて、本当、悪くないんだなあ。