セレステ∞ジェシー



オープニングは日本版のポスターにも使われている、スピード写真で遊ぶセレステジェシー。めまぐるしく変わるラシダ・ジョーンズの表情に惹き付けられる。全編に渡って彼女の顔を見ているだけで楽しく、あの口角の上がること、映画館の暗闇で自分ならどのくらいいけるか試してみたくなった(笑)
ラシダ演じる主人公セレステはやたらめったら走って汗まみれになったり、「ヤケ食い」(するのがジャンクな「ソース」ってのが都会人ぽい・笑)して口の周りを汚したりと「みっともない」ところを多々見せるけど、しょせんは美女、と思わなくもない(笑)


(以下「ネタバレ」あり)


その後、車の中で「いつものように」はしゃぐ二人。自分だってしてきたようなことなのに、なぜか、新しい、見慣れないものに触れているような気になり胸騒ぎがする。話が進むうち、恋愛、というか「こういうの」って、冒険だと思う。予測してたって、どうなるか…どういう関係になるか、どういう気持ちになるか、分からない。それに乗り出す前触れだったのかなと思う。いずれにせよ、こういう「新しい」感覚を与えてくれる映画って面白い。


とても「肉体的」な、しかもその肉体が止まってることのない映画だ。そもそもセレステは、職業からして常に「動いているもの」に魅了されている。終盤、ある人への「大事な」メッセージを運転しながら留守番電話に吹き込む場面に、彼女にとって(乗っている車が、であれ)動いていることこそ生きてるってことなんじゃないか、なんて思う。
印象的だったのは、同じ材料だって作り手次第でいかようにもなるIKEAの家具と、ハグ・ハグ・ハグ。彼女があるものの胸に飛び込んで抱きしめられる時、それまでそんなこと思いもしなかった相手に歩み寄って抱きしめる時、その感触と温度が伝わってくるようだった。


親友の結婚式のスピーチにおいて、この物語の「総まとめ」が、セレステの顔の作中一番のアップと共になされる。すなわち「ある愛を保とうと思ったら、我慢すること、戦うことが必要」。この世の中に「結婚」などの仕組みがある限り、そして「相手」がいる限り、自分の考えがどのようなものであろうとどこかで「折り合い」を付けなければならない。あるいは「男女(性的対象同士の者)が親友でいるためには結婚するのが一番」だとも言える。これは案外、そうかもなと思う。
「総まとめ」がはっきりとセリフで表されても、白けもしないし、「教訓」めいた感じも受けない。最後のセレステジェシーの場面に、こういうことがあった、と伝えたいという「誠実さ」のようなものを感じて心打たれた。離婚届にサインをしに行く際のセレステの服装が、まるで彼女の世界に色が増えたようにカラフルなのも心に残った。


ただ、シネクイントで似たような宣伝をされた「恋愛もの」なら、私は「(500)日のサマー」派かな。映画そのものの好みもだけど、セレステみたいに頑張れないし、彼女と自分じゃ真面目さのベクトルが違うから、どうしても(サマーとはベクトルが同じだと思った、私より向こうの方がずっと真面目だけど)。
でもどちらかというと本作には、「サマー」や「ルビー・スパークス」よりも近年じゃ「ステイ・フレンズ」などに通じるものを感じた。「新しいやり方」という冒険に出ても、結局は社会とその中で生きる自分の心に振り回される、という。それは決して、悪い経験じゃないと思う。