コーダ あいのうた


コーダ(Children of Deaf Adult/s、聞こえない親を持つ聞こえる子)であるルビー(エミリア・ジョーンズ)を迎えに来た一家の父親(トロイ・コッツァー)の「ラップはいい、尻に来るからな」に始まるおならジョークや出会い系アプリなどの描写の数々は、ステレオタイプを楽しく打ち破るだけでなく、確かにそうだ、音楽より画像の方が共有できるもんな等と、聾者の事情を手を替え品を替え伝えてくれる。オリジナルの「エール!」(2014年フランス制作)と比べて私にはいかにもアメリカ映画らしく感じられたその膨大な書き込み量に頭が爆発しそうになるけれど、爆発するなら自業自得、今まで知らなかったせいなのだ。

映画は早朝の海原に始まる。広く自由に見えるが、漁業一家のコーダであるルビーにとってそこは大人でいることを求められてきた場所である。狭く静かで閉じられた、禁じられた湖こそが気を遣わずいられる場なのだ。彼女がマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)を崖から飛び込ませてはしゃぐくだりでは前述のこまかな書き込みが消えこちらの頭と心が解放されるが、それは子どもに戻った彼女の心情そのものだろう。

仲良し一家の中でも世代や個人、役割によって違いがある。父が「人間嫌い」なのに対し兄(ダニエル・デュラント)は社交的、妹を自分達の世話から解放しようともがいている。また母(マーリー・マトリン)が容姿にこだわるのは、会話から分かる「ミスコンで(父いわく)『聴者に勝って』モデルをしていた」という(オリジナルでは設定されていなかった)過去や同業の女性達と話が通じず月に一度の聾者の集いに頼っているという現状から、外見を自身を主張できる大きな要素と捉えているのではないかと想像させる。

「巻き舌が出来なければMr.Vと呼んでくれ」から、メキシコ系のV先生(エウジェニオ・ダーベス)との時間にはいわば他の多様が描かれる。面白いのは合唱の授業の初回で生徒の声を聞いてパートを振り分ける場面で、皆の歌を繋げることで、人によって歌いやすい調が違う、すなわち人によって生きる領域が異なることがありありと伝わってくる。後のマラカス担当を決める些細な場面も楽しい。ルビーの「(先生にとって)大学は役に立った?」との皮肉への「教員になったのは天職だから」が、振り返ると強く響く。

しかし、V先生は何故ルビーがコーダと知っていながら合唱コンサートで曲名の掲示リーフレットへの歌詞の掲載をしなかったのか?私ならする。ここではルビーの両親が途中で飽きてしまい雑談を始めるのが肝だが、曲名や歌詞の情報があっても聾者にとってあのような場は退屈であるという展開は十分ありえる。ともあれこの抜かりがその晩の父親の「さっきの歌はどんな歌だったんだ」に、それが更に翌日の実技試験でのルビーの、家族に向かって手話も用いながら歌うという行動に繋がるように私には思われた(もちろん彼女自身が「Both Sides, Now」と伝えたかったというのもあろうけど)。

このように「マイノリティに求められたから」というふうに取れてしまう形のフィクションを私はあまりいいと思わない。そもそもテーマが音楽だというのも、リメイクにあたって一家の仕事が農業から漁業に変更されたのも、聾者ゆえの困難(と「私達」が考えること)を強調して描くためであり、それはおせっかいではないのかと思わなくもない。結局のところ、あらゆる属性につき、その辛苦について語られると同時にもっと様々な、時に他愛ない内容の映画がたくさん作られるのがいい。