グレゴリーズ・ガール/シルビーの帰郷

特集上映「サム・フリークス Vol.14」にてビル・フォーサイス二本立てを観賞。


▼「グレゴリーズ・ガール」(1980/イギリス)はスコットランドの男子高校生グレゴリー(ジョン・ゴードン・シンクレア)がサッカーチームに加わった女子ドロシー(ディー・ヘプバーン)に一目惚れしてからのあれこれを描く。ドロシーの友人スーザン(クレア・グローガン)がグレゴリーの猫の鳴き真似を遠くに聞きながらベッドで読んでいるのが「真夏の夜の夢」。後日、グレゴリーの友人アンディの「今夜は絶対に何かあるぞ」に何が起こるのかと思いきや…「Gregory's Girl(原題)」なんていなかった(「彼女」じゃなかった)、よく知りもしない女の子を特別視しないことが誠実なんだという話である。

オープニングから覗きにキャットコールと少年による女の消費の描写が続く。暗室やトイレに並べられたドロシーの写真には震えてしまった。今見るとこの映画は、グレゴリーが彼なりの倫理観でもってそうした中を危なっかしくも泳いでいく話に思われた。冒頭彼はコーチ(ジェイク・ダーシー)に「ぼくは成長期にあるから大変なんだ」と冗談交じりに訴えるが、実にその時期の問題を掬い取っている。妹のボーイフレンドが言うように、この年頃の恋は「big trouble」なのだ。ちなみにグレゴリーとコーチが女性に対して自分なりの倫理観を持っていることが共に「乳首」で表されているのが面白く、コーチは職員室で一つだけ「乳首」のないケーキを取るのだった。

学校生活の描写が独特なのも印象的で、遅刻常習のグレゴリーが授業に遅れて加わる場面を繰り返すことにより、まるで世界はいつも待っていてくれているとでもいうような、自由な空気を全編に漂わせている。誰が見ているわけでもない、ドロシーが一人走ったり鍛錬したりする姿がそこここに散りばめられているのも風通しをよくさせている。視点が軽快な映画だ。

アンディは橋の上から大型トラックを見下ろすのが好きだと言う。いわく「この下を毎日12トンのコーンフレークが通る」。こうした趣味は「シルビーの帰郷」のシルビーと同じじゃないか、でも中年女性の場合は周囲から違うふうに捉えられてしまうのかなと思いながら見ていたら、この映画においてこの件は、彼が話したこともない女の子に唐突に披露するくしゃみネタやグレゴリーのまだダンスもしていない相手の腰に手を回す行動、ああいったことは全て文脈によるのだ(何かを経てなら全然ありなのだ)という結論に向かうのだった。


▼「シルビーの帰郷」(1987/カナダ)は湖畔の町を舞台に母親を失った姉妹と叔母との生活を描く。どこに居ようと「HOUSEKEEPING(原題)」をこなす大叔母の二人、自殺した母と放浪者の叔母の二人、まだ少女の二人という三世代の姉妹の話とも言える。行ったことのない山の絵ばかり描いていた祖父や紐での育児の末に自殺した母に似ているという語り手の「私」、ルース(サラ・ウォーカー)は放浪に目覚め、叔母のシルビー(クリスティーン・ラーチ)から「HOUSEKEEPING」を放棄する精神を受け継ぐのだった。

「汽車には券が無い人も乗ってたはず、悪いことじゃない、空いてる席に座っただけ、誰にも迷惑は掛けてない」。真っ暗な湖面、拝借してきたボートの上でシルビーが言う、この場面がたまらなく好きだ。水を手で掬いながら話す彼女は事故で沈んだままの人々を感じて一体化しているようで、人間の恐怖や優しさや諦念や覚悟、全てがここに詰まっていると思う。社会の片隅で好きに生きることと無賃乗車を重ねているとも思う。翌朝彼女は「くたびれたから早く帰ろう」とルースと共に貨車に乗り、家へと戻るのだった。

シルビーの姉妹への最初の言葉は「灯りを消して、その方が素敵」。早朝の薄明るい戸外と家の中とを区切りたくないのだ。彼女は常に世界と共に在りたいのであって、だから大水を厭わないし(ポスター参照)知らない人達の記事が載っている新聞を集めるし室内でもコートを着る。シルビーが主となってから薄暗くなった家の中、妹のルーシーが電気を点けるシーンが二回ある。一度目はシルビーに対し、二度目は彼女とルースに対し、キッチンを照らすことで「普通」と違うじゃないかと不満を表明する(「普通」とは野犬のうろつく戸外と煌々と照らした家の中とを完全に分けていた大叔母達の暮らしのことだろう)。彼女は姉とは違うから、違う道を行った方がいい。

物語の終盤、シルビーは家中を片付け、新聞を燃やし、「皆の前で演技をしているみたいに」頑張るも、ちょっとしたプレイから灯りを点けたら点けたで、全部点いているのはおかしいだの「普通」ならこの時間には消えているはずだのと言われる。そりゃあもう逃げるしかない、「まだ誰も渡ったことのない」橋を。見えないけれどその向こうは確実にある。