カイロ・タイム 異邦人




「やっと『中東』に来ることが出来たわ」
「『中東(Middle East)』とは一体何でしょうね?」


冒頭、ホテルのロビーで「アラビア語で『ありがとう』は何と言うの?」と尋ねたジュリエット(パトリシア・クラークソン)が、教えてくれたタレク(アレクサンダー・シディグ)にすぐにはそれを返さず、去りかけのところへ口にすると彼が振り返る、そのタイミング。ここで惹き付けられた。終盤、ダマスカスへ向かう列車内でのタレクの「ゆうべのテレビで聞いたんだ」というセリフに感じ入っていると、ジュリエットもそれに食い付き「あなたもテレビを見るの?」。ここでもぐっときた。一夜を過ごしたことのない男、しかも彼のような男が「夜に自宅でテレビを見る」図を想像するのはセクシーな楽しみだ。
ジュリエットが空港に到着するオープニングから引き込まれるのは、副題「異邦人」ゆえの要素の面白さだけが理由ではない。彼女の表情一つ、仕草一つに「多くのこと」が表れているから。加えてカイロの街並に始まり、ジュリエットが滞在するホテルの室内の作り、ライトアップされたピラミッドなど、「異国」を身近にリアルに見せる工夫も凝らされている。


この物語で重要なのは、タレクが「西洋雑誌専門店」で買い求めた、ジュリエットが編集に携わっている女性誌について彼女が言う「それは昔のもの、今は違う」という言葉が本当か否かということ。私は当然嘘だと思ったんだけども。
ホテルのテラスに小間物を売りに来る少女から買い物するジュリエットに、タレクはいい顔をしない。彼女いわく「(私の雑誌は)社会問題や女性問題を扱ってるの」「ストリートチルドレンの記事を書きたい」。しかし後に彼が手にした雑誌の表紙には肌の露わな女性の姿、中身は化粧やセックスのhow to記事。「ストリートチルドレンの記事はどこに載るんだい?」と問われた彼女は「それは今のじゃない」と話を終わらせる。私はそれは「嘘」であり、今の彼女の「現実」は「理想」から遠いところにあるのだと思った。
タレクはそんなジュリエットを「現実」から遠くへ誘う。しかし自身の状況をその場の嘘で軽くごまかす彼女は、「現実」から離れたいと強くは願っていない。加えてエジプトの状況を「事情があるから仕方ない」と捉える現地人の彼の「理想」は、彼女のそれとは違う。「難民のため」に休み無しに働く彼女の夫のことを考えると、その内容がどうであれ、「理想」の持ち方の違いは、短い間なら「障害」にはならず「美味しいコーヒー」でうやむやになるが、「長続き」のためには似通っていることが必要なのかもしれないとふと思う。


ジュリエットが「男性用カフェ」に入ると皆が無遠慮に見てくるが、タレクが彼女を「紹介」すると次回からは大歓迎(のように見える)、チェス盤を囲む二人を大勢が笑顔で取り巻く。それは、タレクが言うように「君はお客さんだから」なのだろうか。日本人の私であってもこういうふうになるんだろうか。この場面にせよ、ジュリエットが現地の一家の娘にバレッタを「あげる」場面にせよ、どこか不穏な空気を感じる。その「原因」は、世界と私との双方にあると思う。
「夫に雇われていた」タレクがジュリエットに対して丁寧なのは当たり前だが、彼は「それ以上」の男だ。椅子をひいてくれるのに「ありがとう」と言うと「なぜそんなことを言うの?」、流れる音楽に「すてきな歌ね」と言うと「あなたは素晴らしい耳をしている」なんて言葉が返ってくる。そんな場面の数々を見ているうち、「もうエジプトから帰りたい」と嘆く女性がジュリエットに漏らした「こっちの男性は優しいけど、段々嫉妬深くなってきてしつこいの」という言葉が頭をよぎる。所詮私はそういう人間なのか、という思いに苛まれる。こういうふうに、見る側に安住させてくれない映画って好きだ。


ラスト5分程で急にセンチメンタルになるのがいい。センチメンタルになるのは、夢から覚めた後、その内容を思い出し切なくなるから。だからほんの最後だけでいい。
不意に現れた「夫」の前で、腕を取り合い歩いていた彼女を「ミス・ジュリエット」と呼び、何度か一緒に過ごしたテラスへの「夫」からの誘いを丁寧に断るタレク。夫婦でホテルを後にしての、英語が通じないタクシーの車窓からの眺めは、それまでとは全く違って見える。腰を抱き合って向かう二度目のピラミッドは平凡な「観光地」のよう、それまでぱりっとしていたジュリエットのドレスは平凡な「普段着」のよう。ロビーに立ち尽くすタレクの姿が脳裏によみがえるが、それこそ「事情があるから仕方ない」のだ。


ガウンやドレスから覗く垂れた餅のような胸や逆光でロングスカートの下に透けるすらりとした脚など、パトリシア・クラークソンのルックスの「女」の部分がきれいに撮られてたけど、一番よかったのは、夫からの電話に目覚めた彼女の二の腕の裏から脇の下までが全開になる場面。「肌を露出した」格好であろうとそうそう「見えない」脇には何か、その人の奥深さのようなものを感じる。舞台がエジプトだけに余計印象的だった。