歌声にのった少年



アメリカン・アイドル」のエジプト版「アラブ・アイドル」に出場し、アラブのスーパースターとなったムハンマド・アッサーフの実話を元に制作。昔の少女漫画でよく読んだようなストーリー、というだけだって楽しいのに、切っても切り離せない大きな要素が絡み、面白く見た。


オープニングは海から見たガザの街。次いで建物の狭間でサッカーをしている子供たち(足元の土がいかにも海の近くといった感じ)。そのうち二人が何かをして思い切り走り出す。映画で人が走るのを見ると何のためかと考えてしまうけど、彼ら、ムハンマドや姉のヌール、仲間達はお金、引いてはそれで可能になる事のために走っている。勿論単なる「遊び」の時もあり、海辺で「お姉ちゃん」が一位になる場面などいい。
彼らは辛い物事に明るく立ち向かう。鉄条網に溜息を付くが、それに沿って皆で自転車を飛ばし海へ出る。腎臓の病気が判明したヌールは、悲嘆にくれる家族に「泣かないで、まだ死んでない」と笑う。しかしこれも「仲間」があってこそだ。


ヌールを亡くしたところでムハンマドの「子ども時代」は終わる。彼が成長すると、視点の少し高くなったガザの街はすっかり違って見える(「実際に」変わった部分もあるだろう)。かつてとは異なる理由、学費のためにタクシー運転手としてお金を稼がなくてはならない彼は、自分は「暗闇」にいると言う。昔の仲間との繋がりは切れたが、その代わりとでも言うように、瓦礫でパルクールの練習をするグループや、足の無い体で道を渡る人など、他人を見て物を思う。これが子どもじゃないということか、とも思う。
ムハンマドが「走る」ことはもうないのかと思っていたら、エジプトとの国境を越えんとトラックに乗り込む時に、あるいは「青いチケット」無しにコンテストに参加せんとする時、かつてのように体を使って軽々と入り込む。これらの場面が楽しい。


冒頭こんなタイトル(原題「The Idol」)なのかと思ったものだけど、終盤のコンテストの場面で審査員の一人が「彼こそアラブ・アイドル」と口にした時初めて、そうだ、アラブ・アイドルにはアメリカン・アイドルとは違う意味があるのではないか、なんて考えた。決勝戦のくだりでスクリーンに畳み掛けるように流れる「実際の」映像が強力だ。
「スターになって世界を変える」とムハンマドに誓わせたのはヌールであり、彼がその後に奮起するのは彼女の「腎臓を買う」ためである(彼が進んでその言葉を口にするのは姉を「死」から取り戻そうとする時である)。予選の時の「カメラに向かって?あなたに向かって?」「どちらでも」「ではあなたに」にも表れているように、彼は「誰かのため」に歌うタイプである。その「誰か」の範囲を広げるには、すなわち「The Idol」になるにはまだ時間が掛かる。


作中「何を恐れているの?」とムハンマドの背を押す者が三人いる。ヌールは「大きなところで歌うべき」と勧めて「僕が望んでいないとしたら?」と返された時に、先生はホールでの練習で彼が思い切り声を出さない時に、最後に番組のスタッフが彼が緊張のあまり倒れた時に病室で口にする。彼らは彼よりも先に生き、「彼」や「音楽」についてのプロだから、それが出来るのだ。
ちなみにそういう意図は無さそうだけど、この「分かっている者が背を押す」のとは反対に、相手に無理強いしてはいけない例として、友人のヌールへの「男女の仲」を望む贈り物と「僕がついてるから心配ないよ」がある。女が常に「隠れて」いなければならない世界の話において(「ソング・オブ・ラホール」(感想)でも印象的だった、男だけによる葬式の場面もある)、ああいう場面があるのは嬉しい。