黒いスーツを着た男



面白かった!ポスターや宣伝文句から、「アラン・ドロンの再来」が堕ちてゆく、あるいは這い上がる様を楽しむサスペンス、もしくは「フィルム・ノワール」なのかと思っていたら、非情な世界を生きる者達の交差と変化を描いた物語だった。



「あなた、フランス人でしょう?」


見終わって振り返ると、原題「Trois mondes」=「三つの世界」が初めてぶつかった(のを捉えた)窓辺の場面、後にそれを「想像」する場面が一番心に残っている。
舞台はパリ。「黒いスーツを着た男」アラン(ラファエル・ペルソナ)は勤務先の自動車ディーラーの社長の娘との結婚を控えている。友人達と騒いだ帰り道に彼が轢いてしまうのが不法滞在のモルドバ人。その現場を目撃したのが、医師を目指し勉強中のジュリエット(クロチルド・エム)。不法行為も問わない「企業」でのしあがろうとする者の世界、「5年住んでも国からは何もしてもらえない」不法移民の世界、「学問」に囲まれながら良心を行使してきた者の世界、これが「三つの世界」だ。物語の終わりには、彼らは意思でもって違う世界、あるいは新たな世界に向かう。今、私が生きているのはどういう世界だろう?なんて考えてしまった。


(以下「ネタバレ」あり)


オープニング、暗いスクリーンにまず認めたレダ・カテブの横顔に抱いた予感が、ドキュメンタリー風とも言える映像と共に高まり、ジュリエットが呼んだ救急隊員の描写によって確信に到る。「スタイリッシュなサスペンス」ではなく「リアルな(もっさりしてるってことじゃないよ・笑)ドラマ」だってこと。レダ・カテブ演じるアランの同僚も救急隊員も悪人じゃないけど、「外側」から見ている限り、どこかよそよそしい感じ、「身内」しか志向していない感じを受ける。
ジュリエットは病院のスタッフに被害者の家族について尋ねるも「自分の担当じゃないから」と返される。パートナーのフレデリックと共に被害者の職場を訪れると、不法滞在者であると分かる。またフレデリックと一緒に行動するのがこの時だけということから、二人の関係の脆弱さが分かる。
被害者の妻ヴェラ(アルタ・ドブロシ)との対面を経て、ジュリエットになったつもりで慰めや犯人探しといった「善いこと」をする快感に溺れそうになる心を、映画は軽々と振り払う。病院の後に寄ったカフェで、ジュリエットの「私が払う」という申し出をあっさり受け入れ「あなたフランス人でしょ」と頼ってくるヴェラ。「母は服を二枚しか持っていなかった、そんな暮らしが嫌だから出てきた」と言う彼女の境遇に、ちょっとした善意なんて役に立たないことを思い知らされ、臓器提供を打診される場での叫びにとどめを刺される。医師を目指すジュリエットの心境には、何か変化があったろうか?


冒頭から、どこまでも「車」を活かした映画でもある。「車」といえば私にとってはまず、外と内とを隔絶するもの。外は内ではなく表面の車しか見ず、内からは外が見えるが、奇妙に満ちる甘い孤独に酔わされる。
事故の直後、顔面蒼白になって降りてくるアランと車内から流れ出るバカ騒ぎの名残の音楽との組み合わせにどきどきさせられる。「内」が放たれた瞬間だから。アランとジュリエットがいわば共犯者として「関係」を築くのも常に車の中だ(終盤、アランが思い余って家を訪ねてもジュリエットは中に入れない)。ジュリエットがアランの元を初めて訪ねた後、彼女を送っての、道端に停めた車の中の場面、外の音がぼんやり聞こえる二人だけの世界に、またもや高揚させられる。後日、「本音を明かせる相手」にすがるアランは雨の車内でついに彼女の手を掴み、彼女はそれを大いに受け入れる。
アランを演じるラファエル・ペルソナの顔に私が惹かれないせいか、女達がアランに「甘く」なってしまう場面では、彼の魅力というより彼女達の欲望の放出を感じた。それも悪くない。ラファエルが母親の前でシャツを脱ぐと、全くビルドアップされていないのが、「古きよき」フランス映画という感じ(こういうの…すなわち美男の鍛えられていない身体を見ると、フランス映画じゃないけど「アルフィー」のケイン様を思い出してしまう・笑)


ジュリエットのパートナーのフレデリックは大学で哲学を教えており、彼女が訪ねた際には、ハイデガー等を取り上げ「死」について熱弁を振るっている。死こそ他人が代わってやれることの出来ない「自分」と不可分な唯一のものである、というこの読み方こそ、本作に流れる「テーマ」の一つのように思われる。
ラスト、おそらく学など無いであろうヴェラがアランに対して「夫はもう死んだのだから」と切実な思いを口にする。彼の死は自分の死ではない、しかしその死に向き合い自分の人生を見直したということだ。この言葉に対し、先の場面の講義の何としゃらくさく感じられることか。しかしフレデリックが「生きていない」わけじゃない、私達は何らかの形で強制的に「他」と交わらないと「分かる」ことは出来ないのかもしれない、というような思いも生じる。
「黒いスーツを着た男」は、喪に服す黒い上着を脱ぐことなく、その中身を新たにして生き続ける。ネクタイを外すのはこの場合、「若さ」から卒業した明かしか。