地球は優しいウソでまわってる


初めて手掛けたフィクションをいまいち気に入らないエージェントに「今は色んなエスニシティと競わなきゃいけないからね、難民とか癌患者とか」と言われたベス(ジュリア・ルイス=ドレイファス)が妹サラ(ミカエラ・ワトキンス)と共に母を訪ねての席で「うちのお父さん(彼女には義理の父)の虐待も言葉だけじゃなけりゃね」などとこぼす(母にたしなめられる)のがいかにもホロフセナー作品だなと思ったけれど、今回は、馬鹿だの出来損ないだのの言葉で人を傷つけることが一見ちっぽけなこのドラマの根底に本当の悪として置かれている気がした。そのことを軽く見ている二人目のエージェントとの場面の空気感が絶妙。

ベスと夫ドン(トビアス・メンジーズ)が23歳の息子エリオット(オーウェンティーグ)の初めての戯曲の第1稿を1部ずつ手にしてベッドに入り読み始めるのが映画の終わり。セラピストのドンやインテリアデザイナーのサラ、彼女の夫で役者のマークまで、その「仕事」の内容はちらと映され門外漢の私にも何らかの感想は持てるが(そして誰もに認められるやり方などないと伝わってくるが)、肝心のベスの著作とエリオットの戯曲については伺い知れない(後者のタイトルは「無題」)。「それ」は問題じゃないということだ。

インテリアデザイナーのサラの「世界が崩壊しようといいカシミヤを手に入れたい」、物書きのベスの「周囲がどうなってもナルシシスティックな世界が私には大事」なんてセリフ、なかなか言わせられるものじゃない。後者のそれを壊して笑って認め合っての終盤のお祝いディナーの場面のあまりの幸福感に、小さな人間関係を育てることを続けようと訴えるのがホロフセナーの映画だなと改めて確認し、ここへ来て何が大事か考えてみたという意味でカウリスマキの『枯れ葉』と少し通じるところがある監督作だとふと思った(エリオットが働く店の警備員にもそういえばアキ作品を思い出させるものがあった、珍しく)。