FEAST 狂宴


フィリピンの日常を収めたドキュメンタリーのような冒頭の映像ではのんびりしていた音楽が事故が起きるや悲劇的なものに変わるのに、一瞬の不注意で多くの人生が変わってしまうことを訴える運転者向けの講習ビデオを見ているような気持ちになるが、次第に奇妙な感じを覚える。その理由は登場人物が従っている何かが私(の属する文化)にとっての「普通」ではないからで、レストラン兼屋敷のご馳走の数々で表され、上から下へ流れるその元に一家の父に息子、元はウエイトレスだったという母、使用人らが集っている。ご馳走に価値を見出さない裕福らしい元妻のグループだけがそれになびかない。

映画の終わりに出るのは『ルカによる福音書』の「命は食物にまさり、体は衣服にまさる」。章が変わるごとに示される「肉を食べて争うより青菜を食べて笑い合う方がよい」「宴には体の不自由な者や貧者を呼ぶといい」(以上曖昧)といった文とは逆のことが実際には延々と行われている。夫の生命維持装置を切るのに苦しみ謝罪した妻を除いては、あるいはこれも含めて、神は利用されるのみ…と私には見えたけれど信仰とはこういうものなのかもしれない。息子の罪を被って逮捕された父は「家族の元に早く帰るため」に刑務所内で『ルカによる福音書』を読み聞かせ(「口に入れればなくなる食べ物よりも…」)を行い、息子は告解し血のついた、あるいは血をつけた手で死んだ男の妻に告白することで救われ、映画は彼が心ゆくまでご馳走をむさぼるのに終わる。

件の事故は私には「力のある者(大きな車)は力のない者(トライシクル)を僅かな行為で殺してしまう」ということの比喩のように見えた(尤もここではトライシクルのバイクを運転していた父親が突然転回するのも原因であるのが絶妙)。すぐに血を洗われたフォードはなおも家族が使い、夫(父)を殺された使用人一家が使い、映画の最後の日も変わらず停まっており何やら不滅なものの象徴のようだ。このあたりは車映画というか車に重ねて人間を描く(この映画とは違うことを描いている)パオロ・ビルツィの『人間の値打ち』(2013)を思い出した。