最近見たもの



妻の愛、娘の時


映画とは大体において「今こんなことが起こっています」という体でものを見せるわけだが、この映画は、まさにその、私の目の前で起きている、誰かと誰かが言い合いをしたり愛を確かめあったり、そんなことがかつてからこれまで無数にあったのだということを語っている。それらには、後の誰にも、本人でさえも手が届かない。どうこうしようがない。でもあがいてしまう。私にはこれは、そんなふうに、生きるにあたりどうしようもないことをしてしまう人々を優しく見つめる映画に思われた。


男の60歳に対し女は55歳で定年退職しなければならないことに不満を抱く母親(監督兼主演のシルビア・チャン)につき「働かずにお金がもらえていいじゃない」と言う娘、そんな彼女が外の世界に向けるカメラにそりゃあ悪意はない。彼女はまだうんと、人生の始めの方にいる。「でもおじいちゃんが(私の)おばあちゃんと一緒にならなかったらお母さんも私もいない」…だけにとどまらない、「(おばあちゃんとは血のつながりのない)お父さんも(自分の恋人の)アダーもいない」。このセリフで世界がぐんと広がる。


ラストのシルビア・チャンの夫への告白の素晴らしさよ。映画ならではの美しい愛のシーンだった。

1987、ある闘いの真実



劇場を後にする際、泣いている観客の多さに一体何に泣いたのだろうと考えて、自分の思慮の浅さに気付く。この映画の何に泣こうと、それらは全て繋がっているに違いないから。パク所長(キム・ユンソク)と崔桓(ハ・ジョンウ)の最初の接触が電話越しというのにわくわくするもすぐに対峙してしまうことから、この映画が「群像劇」だと分かり、崔桓は映画に登場していない時は何をしているのかと考えながら見ていたものだが、これもまた、そう見るのが正しいのだろう。色んな人が必要だというわけだ。


とある場面で白い布に赤い血が染みてゆくように、ある出来事、一刺しから広がってゆく、その先には「ラブコメ」や「スリラー」もあろうという映画である。それらの部分がオムニバスになっているよう…というのは「好意的」な言い方で、私にはそうした作りがあまりいいと思えなかった。始めより場内には、特に崔桓のパートでは笑いが何度も起きていたが、カン・ドンウォンが顔を出すところで(キム・テリが「あらかっこいい」と態度を変えるのが見え見えなので)起きた笑いには違和感を覚えてしまった。映画の行き着く先は彼女の振り上げた手であったが。


冒頭、息子の遺影を抱えてしゃがみこんだ父親の口をついて出た言葉は「息子はアカじゃない」。映画の最後、いや1987年のあの日、彼は何をどう思ったろうかと考えた。