30年後の同窓会



新宿が満席で出向いた日比谷の劇場も混んでいた。ドク(スティーヴ・カレル)の話を聞いたリチャード(ローレンス・フィッシュバーン)夫妻が自然と手を重ねるのに(この時、男同士の心はまだ寄り添い合ってはいないが)、私とパートナーでもそうするだろう、たぶん、なぜか、と思うと同時に、これは出来れば大勢で一緒に見るべき映画だと思った。恥ずかしいような言い方をすれば、心の中で皆で手を繋ぎながら。


サル(ブライアン・クランストン)は店のレジの上に「小便するのもタダじゃない」との文句を掲げ、客にいかにもそのような言説を振舞っている。終盤ドクの家に着いた彼が車から降りるや用を足す、あれは久々の屈託のない小便だったに違いない。男三人がそこに至るまでの物語である。
冒頭ソファで寝て起きたサルが冷めたピザと気の抜けたビールを口にし「昨日の疲れが取れない」と言うのに、彼は本当に休息したことがあるのだろうかと思う。収監されも神に出会いもしなかった彼だけが、ホテルでも、恐らくこれも久々のベッドで眠れずにいる。それを補うために一人食べ続けているのだろう。仲間とキャンディーを分け合えるようになるまで。


「人間はいつでも移動する、死んでもな」とはサルの言だが、彼の車で三人が出発するや、トラックとの一件で、同じ車に乗るとは運命を共にするはめになるということだと分かる。二人を暗黒時代から来た使者だと言うリチャードは道を分かちたがり、「バスに乗って帰る」と何度も主張する。途中から彼らが列車での旅に移行するのは、皆の中に混じっても「三人」一体になったからである。
彼らが死体と少々離れる時間を持つのは、その必要があるからだろう。映画に死体が出てくると、死んだやつがいるのに生きてるやつがいると実感させられるものだが、その死が「殺すか殺されるか」「ただ、今は自分の番じゃない」の中における死なら、作中の彼らも私達もいったん離れたっていい。


物語が俄然面白くなるのは、サルがドクの息子の死を固めている嘘が許せず彼の前で見事に暴いてみせるところからである(「見事に」とはワシントン(J・クイントン・ジョンソン )が大佐に叱責されないよう済ませた機転を指す)。ここから三人は嘘に、すなわち真実に立ち向かう。「名前も出せない」とある人物をずっと気にしていたことを仲間に明かしてから、サルはこんこんと眠るようになる。「携帯電話無しでよくやってきたな」なんてセリフも、彼の時間が流れ始めた証拠である。
彼らが手にするのは嘘だけでも真実だけでもない「調整」された何かであるが、三人で調整したということが大切なんである。ドクの家での、ワシントンの、大佐の命令を実行せんとするしれっとした顔付き(作中これに最もどきどきした)を経て、着地はあのシンプルな文章である。


男達が「ディズニーランド」について話す長い場面には、リチャードが口にする「あれは義務からの逃避だった」とのセリフにふと、「リベラルな男が女を消費するのは、それがお上の支配に抗うことだったから、癖が抜けないのだ」という言を思い出した。「あの時には心に神がいなかった」なんて何てことのないセリフが、彼が進んでいることを覗わせる。振り返ることが出来ているのだから。
ワシントンの「買春も売春もよくないと思う」が、個人というより世代として描かれていると取れば、「どの世代にも戦争はある」かもしれないが、女にとっては「前よりは戦争が終わってきている(って、とても奇妙な言い方だけども)」と思った。