イマジン



昨年、このブログを読んでくれている方と話をして初めて気付いたことに、私は映画館では耳よりも目におそろしく頼っている。だから本作には少し構えていたんだけど、実際に見てみたら、そういうんじゃない、何と言うか、自由な感じの映画だった。
尤も私はある意味「窮屈」な映画の方に惹かれるので、好みとは言えない。ある種の「自由」さを発揮されると却って「映画」の限界を感じ、そんなことなら映画じゃなく何か他のことをして新たな体感を得たいと思ってしまう。


映画が始まると、犬の吠える声、鳥の飛び立つ音。ぼやけていた「画」がはっきりすると、犬は思っていたより(「カメラ」から)遠くに居る。視覚障害者にはこのように感じられるということなのかなと思っていたら、当の男が立っているのは正面のドアの向こうだった。
というふうに、勝手に想像していたのとは違い、「映画的」な楽しみがまず在る作品だった。エドワード・ホッグ、アレクサンドラ・マリア・ララという「美男美女」をメインに配したり、「穴」を事前にしっかり見せてはらはらさせたり。「見えない」二人が大西洋に触れに行く場面において作中唯一の俯瞰映像になる時の、あと一歩で海に落ちる!というはらはら感も含め、お固い私にはこれらがノイズに近かった。


イアン(エドワード・ホッグ)は盲目の子ども達に「反響定位」の利用法を教えるインストラクターである。「ものを教える」とは人の命を預かることだというのが、こんなにも直接的に描かれている映画は他に無い。ただし彼自身が常に傷だらけ(初登場時から顔にばんそうこうを貼っている)であることからしても、この映画は主人公の生き様として「ものを教える」ことより「自ら危険を冒す」ことに重点を置いているのではと思う。
「本当は見えているのではないか」「私達が居ないところでは杖を使っているのではないか」と疑う子ども達は、イアンに「罠」を仕掛ける。「転んで怪我したらどうする」「そしたら杖を使うようになる」というのはすごいギャグだ(笑)こうした、「安全」よりも「好奇心に付随する危険」を優先するセンスには、作り手の心意気のようなものを感じる(病室での一幕で示される「悲劇」の可能性は、なぜ入れられたのか?)


イアンと子ども達が施設の庭に出て、近くに「居る」ものについて話し合う。男か女か、なぜそう思うか。この場面を見ながら、私があそこにいたら、そんなふうに自分が吟味されている(と知ってしまう)ことに耐えられないのではないかと思った。しかし中盤、舌で音を出しながらの歩行訓練の場面に、日がな目の前を眺めながら「見ているが見ていない」人々には「攻撃」とも取られかねないことをしながら生きる必要がある、そういう人々がいるのだと思い知った。
このことについて考えている時に思い出した映画は「あなたを抱きしめるまで」。「感覚」がどうという話じゃ全然無いけど、デンチが周囲にやたら「絡んで」いくところが印象的だったから。自分から何かを発して探るということを、私はしていないのじゃないか?「今」そういうことについて考えるのが必要なんじゃないかと思って。


一番面白かったのは、イアンがエヴァの靴を選ぶ場面。幾つも手に取りヒールをかんかん打ち鳴らし、試着する彼女に対し「歩いてみて」「もっと歩いてみて」。その上で「そんな『弱気』なやつじゃダメだ」と最終的に選ぶのは豹柄のパンプス。これって、靴を作っている、「目が見える」人でも、「見た目」と「出す音」とを結び付けてるということでしょう。それとも単なる「映画」のお遊びかな(笑)
作中面白可笑しいBGMが流れるのがイアンが反響定位を利用して歩く場面だったり、ぶち切れた生徒がまずするのが「周囲の人に質問する(=自分の力に頼ることをやめる)こと」だったり、といった描写も「示唆的」で面白い。


ラストシーンにおいて、映画は突然、大きく視点を変える。それまでイアンやエヴァにぴったり寄り添っていたのが、彼の所へ向かうために立ち上がる彼女を「街の風景」の一つのように捉える。カメラがカフェの前を通る市電に乗ると、それまでの「音」は全て消え、音楽が流れる。それは私(達)が慣れ親しんでいる、いわば陳腐で安心できる映像だ。なぜ最後にこんなふうに、いつもの世界へおかえりと背中を押すとでもいうようなことをするのだろうと思ったけど、振り返ってみると、そのおかげで、それまで見ていた世界の独自性がより実感できるような気もする。映画館を出て「日常」に戻るより、比べやすいから。