暁に祈れ



オープニングは、やはりシネマート新宿の大きなスクリーンで見たばかりの「ゴッズ・オウン・カントリー」と同じく主人公の裸の背中。この時点でここから遡らないと分かる。背中は「それまで、あるいは今」を語るものだから。これは彼、ビリー・ムーア(ジョー・コール)の背を追っていく映画だった。


宣伝文句にあった「のし上がる」ではなく、極限状態の中で自分の居場所を見つける話である。「その土地の水に慣れる」とはよく言ったもので、刑務所内で水を遣うシーンが多々あり、始めはそれこそ生命維持のためとばかりに奪い合っていたのがバリエーションが増えていく。ムエタイチームの練習後の水浴で皆とじゃれ合う時の笑顔が印象的だ。


言葉の通じない者同士、どうやってものを教え教えられるのか。ここではビリーは特例なので、コーチは用語を教えるでもなくとにかく自身でやってみせる。このコーチ、囚人達に比べたら腹なんて出ているのにキックをすると力まずとも素晴らしくきれい。楽器の演奏だってそう、先生こそ力が抜けているように見えるものだよね。ともあれこの場面で、よくない例とよい例を見て改善したキックに皆の賞賛をもらったビリーの笑顔には、絶対できっこないのに私もムエタイをやってみたくなった(笑)


終盤、試合に勝ったビリーはリングの周囲をぐるり見回す。ボクシング映画を見慣れた私達にはお馴染みの光景ながら、冒頭の彼はやらなかったことだ。しかし誰もいない。倒れて病室で目覚めた時も同じ、刑務所では毎度誰かがいたのに誰もいない。一旦逃亡した彼が戻ってくるのは、足枷を付けた一人の先には何もない、今の自分の居場所はここだと分かったからだろう。そこに覚悟というより甘え(甘えたっていいじゃないかと思わせる類の甘え)が感じられたのだから、物語の始まりからの遠い旅路だ。


この映画は(それこそ「ゴッズ・オウン・カントリー」と同じく)希望に満ちているように、いや希望あれという思いに満ちているように私には思われた。何らかの共同体の中ではある程度安全だが外に出ると危険って、大なり小なり私達の生活と同じである。その周縁にある些細な善…いわゆる人間性のようなものが描かれていた。特殊な例を描いているところが面白いんだけれど、見ながら遠いところの話じゃないと思った。