運び屋


(少々の「ネタバレ」あり)

素晴らしい作りの映画だったけれど、イーストウッドの悪癖「全ての女がイーストウッドに理不尽なまでに好意的」が枝葉だけじゃなく幹にまでやりたい放題に及んでおり見ていて辛かった。映画の最後に彼演じるアールが「自分は全てにおいて有罪だ」と認めても、実の娘、演じる実の娘!が「大丈夫、愛してる」の上に「(刑務所に行くことについて)居場所が分かるから安心」と自虐ギャグの幇助までしてくれるというラストにはさすがに白けてしまった。

白人男性の愚かさとある種の誠実さを自虐をこめて描く…のはいつものこととはいえ、周囲の人々の「駒」ぶりが強くて驚かされる。妻メアリー(ダイアン・ウィースト)が「今度は孫娘を泣かせるつもり?」と責める横で当の孫娘ジニー(タイッサ・ファーミガ)は泣いておらずむしろ祖母が騒いだことで泣いてしまうなんて描写には、現実によくある「女からの非難を都合のいい女に味方させて無効化しようとする」やり口を思い出し不快になった。「中西部で一番のポークサンド」の後の一幕だって、私があの二人ならむかついて終わりだよ(笑)

主人公アールの彼なりの誠実さはインターネットを悪しきものと非難するところに表れている。新しいものがどうこうというんじゃなく、「今この時に出来ることは一つしかない」という不便をそうした技術で解消するのは不正だというわけだ。彼は常に「一つ」を選択しその報いを受けてきたのだから(ただしブラッドリー・クーパー演じるコリンが機器を有効に利用している描写からして、自身の時代は終わったのだとも言っている)。時間をテーマにしているという意味では、前作「15時17分、パリ行き」に通じるところもある。胸躍るヘリの登場シーンからの一幕がコリンの「時が来た」で締められるところで、クーパーが出演した意味を理解した。

死を前にした妻メアリーの「なぜか分からないけれど嬉しい」というセリフが妙に心に残った。あれは彼が他の全てを投げ打ってきたと、「幸せだった十年」ゆえに感じ取れたということに私には思われた。