アイ・アム・タレント



予告編を見た時に感じた通り、いわゆる被写体に撮影者が関わっている…という言い方もそぐわない、人々の交流の記録というのがしっくりくるような映画だった。作品によると、制作・監督としてクレジットされているナタリー・ジョーンズは友人を通じてタレント・ビエラのことを知り、ストリートキッズの彼を自宅に住まわせ食事を作り個人教師を付け、プロのスケートボーダー達と交流できるよう便宜を図る。ちなみに彼女がインタビューを受ける一人として登場した時ふと、「ロード・オブ・ドッグタウン」を撮ったキャサリン・ハードウィックを思い出した。トニー・ホークも出てくるし。


オープニング、監督の趣味らしいピアノの単音が目立つ音楽にのせて流れる、台本を読んでいるかのようなタレントの語りを奇妙にも感じたけれど、そのうち彼がとても抑制された人間なのだということが分かってくる。「学校に居る時は父親に殴られた後か傷を縫った後だったから心ここにあらずだった」、家を飛び出してからも何度も暴行されてきた少年が、「怒りや不安よりも人生には大切なことがある」と自らをコントロールして生きている。


タレントが関わる大人も皆そうで、監督と彼の暮らしの映像からははみ出した熱のようなものは感じられず、二人の間には撮影者・被撮影者という関係ゆえじゃない、落ち着いた距離が常にある。プロのスケートボーダー達も「保護者じゃないから善悪は教えない」なんて言いながら、ただただ交流する。これが彼の性分に合っていたのだろう、そうした関係の末に全てがマッチして走り始める瞬間(に見えるのは映画の作りだけども)の快感よ。


山岳映画、いや山にまつわる映像全般を見ると、これを撮っているカメラマンがいる!と思うものだけど(断崖絶壁を一式背負って登ってると想像する)、この映画ではスケートボード専門のカメラマンの仕事ぶりが見られたのが面白かった(でもって、それを撮っている人もまたいるわけだ)。映像がスケーターにとっていかに重要な要素であるかも分かる。キャリアの長い一人が言う、「映像や執筆など周辺産業はいくらもある、どこかに居場所を見つけて自分の力を最大限いかす、それが(自分の考える)成功だ」との定義が面白かった。