ぼくと魔法の言葉たち



冒頭、「卒業を控えた」オーウェンが自室でビデオテープをセットしテレビで「ピーター・パン」を見る、その目は「魅了される」の具現としか言い様が無く、自分はこんなふうに何かを見ることがあったろうかと考えた。
程無く、先の場面ではベッドの上でフック船長の真似をしていたオーウェンが、幼い頃に父親をフック船長とし、自分はピーター・パンになっていわばちゃんばらをする、20年以上前の映像が挿入される。父親はこれを何度見ても見足りないんだそう。このしばらく後に息子は「vanish」したのだと言う。オーウェンは人の言葉が音にしか聞こえなくなったと言う。それってどういう「感じ」なんだろう、などと思いながらずっと見た。映画は彼の中へ私達を案内しようとしてくれる。


まず伝わってくるのは、オーウェンの努力をいかに多くの大人達、両親を始め数々の専門家達が支えてきたかということだ。それがすごいというんじゃなく、すごいけど当然なんだ、それが世界というものだとこの映画は言っている。同じシネスイッチ銀座で見た「太陽のめざめ」を思い出した。
中盤には26歳の誕生日を祝われたオーウェンの兄が、「誕生日はあまり嬉しくない」「両親も日々年を取っている、彼らが居なくなったら弟には僕しかいない」とその責任を語る。ここへきて、この映画がある家族の物語でもあることに今更ながら気付く。


両親や専門家によると、オーウェンは「物語を手掛かりに世界を理解している」「ディズニーのアニメーションは表現が大袈裟で分かりやすいので手掛かりにしやすいのではないか」。私が無意識にしてきたことを、限定的なやり方で、意識的にしてきたということなのかなと考える。
初めて両親の元を離れ引っ越した晩に「バンビ」の母親が殺される場面を見たり、ガールフレンドのエミリーに別れを告げられた後に「リトル・マーメイド」?が恋に悩んでいるらしき場面を見たりするのには、そりゃあそうなのだと思いつつ、私もそれに代替することをしているのかなと思う。


「ディズニーのアニメーション」という極めて限定された手掛かりによる処世には、多大な困難がつきまとう。兄は一緒にゴルフをしながら「キスする時に必要なものは何だと思う?」などと話して彼を助けようとする。いわく「ディズニーの映画はキスでハッピーエンドだから、セックスについてどう教えていいか困ってる」(学校で教えるのは難しいのだろうか)。終盤「元恋人」エミリーへのメールの文面を聞いている運転席の兄の、ミラーに映った何でもない瞳が心に残った。
オーウェンは、セラピストや母親に「あなたの年齢で永遠の相手に出会える人は少ない」「別の子を見つけるのよ」などと言われ、歩き回り大きな声を出す。胸が痛むと同時に、同じ集合住宅に暮らすエミリーは、玄関先で彼の言葉を聞き流す(ふうに見える)時、どんな気持ちなのだろうと思う。


フランスで開催された自閉症についてのシンポジウムの控室で、父親にネクタイを結んでもらいながら「いつまでもはやってあげられないよ」に「分かってるよ」とはまさに「会話」じゃないかと思う。スピーチの様子はいわば「真の自立」の予行練習のようだ。そこには自分しかいない。
オーウェンが綴った「迷子の脇役たちの物語」についての母親の「あの子は自叙伝を書いていた」とは、まさに予言のようだ。映画のラストに至り、そうだったと分かるのだから。「暗い中に少年が見つけた」光るものは、社会に出て自分を示すことだった。映画はオーウェンが映画館で笑顔で働く様子と、彼が一人、スクリーンの席に座る姿に終わる。ふと姿勢をよくしたくなるようなラストだった。