イコライザー2



とても面白かった、話も暴力描写も全てが好み。二年に一本くらい出会える、例えば「デッドマン・ダウン」や「ラン・オールナイト」のような映画だった。何がというわけじゃなく、見て得られる喜びの種類が似ている。


この手の映画につきものの、オープニングの「いつものお仕事」描写は、デンゼル・ワシントン演じるマッコールと後に描かれる他の奴らの違いを示すためのものと受け取った。マッコールは相手の言語でやりとりをするが、ブリュッセルの被害者は口を閉じてろとばかりにただ殺される(おそらくそのことを汲んでその人物のセリフには日本語字幕が付かない)。穿った見方をすれば、アメリカはちゃんと理解してから悪を成敗しているのだという主張にも取れなくもないけれど。


とあるファミリーに対して皆殺しを宣言するマッコールの背後に別のファミリーが姿を現す時、この映画の世界には上(一般人)と下(人を殺す者達)の違うレイヤーが存在しているのだと分かった(この真逆と言えるのが殺し屋専用ホテルなんてものがある「ジョン・ウィック」かな・笑)。ここで彼がヨーク(ペドロ・パスカル)の娘を抱き上げるのは、勿論自らの保険のためだが、上のレイヤーへの接点を作って手出しできないようにしたわけである。


兄を銃でもって殺されたマイルズ(アシュトン・サンダース)が自分も殺す側に回ろうとするのを、マッコールが「アートじゃ食っていけないなんて、環境や差別のせいにするな」と諭すのは、デンゼルが監督主演した「フェンス」(2016)の、夢を見るな、お前も俺と同じように潰されるのだからと押し付ける父親の真逆であり、それを意識しているという点で二作は繋がっている。「悪」が存在するのは仕方がないが、その連鎖は防がねばならない、身近なところから、というのが本作の姿勢である。


マイルズとの「(ドア越しに)マッコールさん?」「(誰だか知っていながら)どなた?」、「飲み物はある?」「飲みたいのか?」なんてやりとりは、「先生、トイレ」「先生はトイレじゃありません」に代表されるいわば教員ギャグだが、マッコールの几帳面さというより文脈に依らない言葉の遣い方、「教育」にはそれが必要だと考えているのが窺えて面白い。言葉といえば、「あの夫にはガールフレンドもボーイフレンドもいなかった」「妻の方は?女も浮気するのよ」、「おれはアートで食っていくから他の授業は受けない」「馬鹿じゃアートは続けられないぞ」など非常に今っぽいセリフが散りばめられているのもよかった。


女が暴力をふるわれるシーンもとてもいい。何がいいって、女が暴力に巻き込まれたらああいうふうだろうという「普通」がそこにあり、ただそれだけのことが見ていて気持ちがいい(そりゃあ私なら一瞬で気絶してるだろうけど・笑)。スーザン(メリッサ・レオ)からマッコールへの置き土産があの再会に繋がるのが、じんとくるどころじゃないラストだった。