ワンダー 君は太陽



予告から想像していた百倍はよかった。たまにあるものだ、紋切り型の、感傷的な描写の数々が、気にならないばかりか何らかの柱になっているようにすら感じられる映画というのが。


映画がまず示唆するのは、誰かにとっての初めては周囲の誰かにとって、ひいては世界中の誰もにとっての初めてでもあるということ。「今日が初日」と宣言する医者の元で生まれたオギー(ジェイコブ・トレンブレイ)が学校に行く初めての日は、母イザベル(ジュリア・ロバーツ)や父ネイト(オーウェン・ウィルソン)、姉ヴィア、学校の皆、誰にとっても「オギーが学校に行く」初めての日なのだ。犬のデイジーにもオギーが不在の初日だし、豊かなキャリアを備えた校長(マンディ・パティンキン)でさえも、最後の授与式における「気付いた」とのセリフから初めての経験をしたことが分かる。至る所に、毎日毎時間「初めて」が在る。


面白いのは、担任かつ英語教師の「Mr. Browne」が(オギーを初めて迎えるのみならず)教師になりたてだということ。冒頭の授業の性急な感じからそれが伝わってくる(後に「金融機関の仕事をやめて教師になった」とのセリフがある)。作中彼は教員として技術的なことを殆どしない。その言動は違うもの、例えば初日に板書した「正しさと優しさ、選ぶなら優しさを」という格言に裏打ちされているようだ。この物語に出てくる全ての人々がそうだとも言える。ちなみにこの格言につき「読みたい人は?」と言うと、他の子らの猛アピールの中でサマーとジャックとオギーだけが静かにしているが、ミスター・ブラウンはその中からサマーを指名し読んでもらう。振り返るとジャスティンが無口なヴィアを気にするのにも似ている。


これは一級の学校映画である。物語は子らの視点で順繰りに紡がれる。彼らにとっては学校が世界であり、これは学校を始まりとして世界が広がるという話である。ヴィアの「学校ではよくあること、人は変わる」がこの映画を最もよく表している。野外学校で上級生に襲われた際にかつてオギーをいじめていたクラスメイトが助けに入る一幕には、校長の「彼は見た目を変えられないのだから皆が見る目を変えなければ」を思い出す。これが世界の広がる過程なんだと。泣き顔のオギーが投げた石が波紋を作るのに、上級生もやがて友達の側に入ることが示唆される。「外からの力を加えない限り運動はそのまま続く」と語るこの映画が主張するのは、「人は力が加われば(善い方に)変わる」ということだ。


それにしても、家に帰るとオーウェンがいる暮らしとは。ずっと一番好きな人だった…って嫌いになったわけじゃないけれど、忘れ掛けていた気持ちを激しく思い出させる映画だった。特に終盤とある場面で眼鏡を掛ける姿(珍しいよね)に爆発した(笑)男は「スター・ウォーズ」を見るが女は見ない、女は「ダーティ・ダンシング」や「オズの魔法使」を見るが男は見ない、という世界の男としてオーウェン程の適任は居ない。他なら辟易してしまう。ジュリア・ロバーツの方も、娘が「一度でいいから私のことを見てほしい」と思う場面など、赤の他人の私だって見てほしいと思うほど素晴らしかった。作中最も大笑いする場面では、そうだった、彼女は笑った時の口の大きさが魅力的だと言われてたっけ、確かにそうだと思い出した。