主人公リュシアン(バンジャマン・ヴォワザン)について「彼がどんな波にさらわれたのか」、彼が出てきたパリについて「絵付き広告に添えられているのは新しい言葉だ」と語るグザヴィエ・ドランの声にその後の展開を激しく予想して…たったこれだけで何かを伝えて何かを発生させるのは確かに言葉にしかできない芸当だ…なんてナレーションの使い方の上手い映画だと感じ入った。作中リュシアンが誰かと二人で話す際にはナレーションが表す「目」は時にすっかりなりを潜める。
新しい言葉が広まっていった時代の話である。それは新聞社の編集者ルストー(ヴァンサン・ラコスト)いわく人々に物を買わせるため、ひいては自由派の株主をもうけさせるための言葉であり、使い方を学んだリュシアンは衆人環視の中で読んでもいないナタン(ドラン)の新作についてもっともらしいことを述べ、遂にはロマン派シューベルトの「野ばら」をバックに「ものにしたい」コラリー(サロメ・ドゥワルス)の前で記事を書き上げ記者としてデビューする。それが物語の終わりには、愛する人に墓までは買えない金額を稼ぐために使わねばならなくなる。彼の最初の記事には女への愛も含まれていたが、その混濁のせいで失墜したのかと考えてしまった。
新しい言葉でもって力を得たリュシアンは、愛するコラリーをパトロンから引き離そうとする。駆け引きで自身の詩集を出版にこぎつけた際には業界の大物ドリア(ジェラール・ドパルデュー)に「独立性を保ちたい」と言う。力を得ればしがらみから独立できると信じていた彼の「人間喜劇」のクライマックスが、コラリーの「価値」を金で買わねばならなかった舞台初日だとは皮肉が過ぎる。一体、彼が初めて劇場を訪れた際にカメラが天を映して語った、つまりその場にいない存在であっても、そこから独立して力を持つことができるだろうか?当時も、現在も。
リュシアンが愛し愛された二人の女性、ルイーズ(セシル・ド・フランス)とコラリーはいずれも「美のために闘わなくては」が信条だ。その美とは物の価値が独立し得ると信じる気持ちのことであり、二人は彼の中にそれを見たのかもしれない。コラリーが彼を初めて見た日にフロリーヌ(キャンディス・ブーシェ)に「誠実そうだ」と言うのはそのことじゃないのか。後にルイーズについて「幸せそうじゃない」と言うのはそのことじゃないのか。更には二人と地下の水脈で繋がっているのがナタンであるようにも私には見えた。彼の(姿の)登場シーンはドランの監督作での自身の出番にはないちょっとした衝撃があった。このナタンがリュシアンについて物語ること自体が、そのキャラクターの中に何かがあったことの証だろう。