マティアス&マキシム


冒頭、同年代の男ばかりの集まりでマティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)の「ケーキに火をつける、じゃなくろうそくに火をつけるだろ」という発言が肴にされる(撮影までされておりスマホで映像を見せつけられる)が、そのうち、「言葉警察」とからかわれてしまう彼は言葉をきちんと使おうとしているのだということが分かってくる。遅れてきた仲間の「何の話?」にはこう答えるのだ、「何も話してない」。皆のことは好きでも、あそこで成されているのは彼にとって「話」じゃないから。

マキシム(グザヴィエ・ドラン)は母親(アンヌ・ドルバル)とどれだけ会話しようとすれ違う。やりとりの最中に彼女が「ちゃんと答えて」と言うのは、息子が話しているのに話していないと感じているからである。しかし物を投げられようと唾を吐かれようと、ドランの映画の母は「愛しているのに」の対象である。思っているのに通じ合えないというわけだ。終盤マキシムは見知らぬ女性に「オーストラリアじゃそんな英語は通じない」と笑われるが、言葉を使うことにくたびれて敢えて言葉の通じない国へ行こうとしていたかのように私には思われた。

映画はそんなマティアスとマキシム、それこそ七歳の頃から隣に居た二人が今も横並びで走っているのに始まる。しかし実際には道は分かれ話はできていない。帰りの車中でマキシムはとある看板に違和感を覚えるも何も言わず窓から煙草を投げ捨てるが、もしもあの時に思ったことを話せていたなら、これまでもそうだったなら、関係は既に違っていたかもしれないのに。

停滞していた関係は、言葉を使わず実に直接に、唇と唇、口と口で触れ合うことで不意に発展する。外から内へ何かが響いて、互いときちんと話をしたいという気持ちが湧き起こる。この映画はそれを恋だとしている。マティアスがパーティのゲームの席で突然怒り出すのは、恋におちることで心の奥底にあった「本当の話をして理解し合いたい」という欲望が噴出するも思うようにならない苛立ちの中、マキシムが自分以外と「本当の話」をしていると思ってしまったからなのだ。あのシーンにはやられた。

マキシムが叔母に「あなたは優しい人ね、今の世の中じゃ却って不利だけど、優しい人は警戒されるから」と言われるのが、私としては昨今の映画からよく受け取るメッセージ…社会は男性のシンプルな優しさを受け入れようとしない(が、それでいいのか?)と繋がっており印象的だった。彼がするのは優しく言葉をかけ優しく手を添えること、自身で「ばかでもできる」と言う母親の世話。でも人は「ばかでもできる」はずのことをしないでしょう、植物に水をやったり人の名前を覚えたり。それが大事なんだと思う。