Mommy マミー



映画が始まるとはためく洗濯物。中央に男ものの下着が一枚、その両隣に0.3人分位ずつの衣類が窺える。初めての「1対1の画角」すなわち「正方形」。3D映画でも無いのに、冒頭、寝室のベッドに寝転ぶスティーヴ(アントワン=オリヴィエ・ピロン)の、こちら側に向かって投げ出された手を引っ張りたくなる。玄関のポーチに腰掛けるカイラ(スザンヌ・クレマン)の、少々上から撮られたアップの顔に両手を掛けて引っ張りたくなる。閉じ込められている彼らを「こちら」に連れ出したくなる。そうしたら驚くだろうか、喜ぶだろうか、拒否するだろうか、それを知りたいという強烈な思いが湧いてくる。映画を見ていて初めての体験。
「正方形」に麻痺しそうになると、ダイアン(アンヌ・ドルバル)が煙草の煙をごまかす消臭剤(芳香剤?)が息苦しさを演出する。ひと時の「自由」の後、彼女が訴訟の手紙を読むや画面はまたじりじりと狭まる。


ダイアンとスティーヴが暮らし始めた翌朝、向かいの家のカイラの耳に夫と娘が自分を呼ぶ声がくぐもって聞こえ、振り返ると手前の二人がぼやけて窓の外の「二人」にピントが合う。これがドランなんだな!だって映像で表したらこういうことでしょう?とでも言うようなストレートなやり方は、例えるなら「落語」を知らない人が作る新作落語のようなものだ(笑)
1対1の画角、「違う世界のカナダでは…」なんて「SF」設定、あからさまな言葉や表情、仕草、感情を表現する雨や風、ドランの映画を見るとこれまでの「映画」は一体何だったのかと思う。「コペルニクス的転回」という意味ではなく、「感情」を「そのまま」表現するのと知性とが両立し得るという当たり前のことを味わえる快感。とても「現代的」だと思う。


ティーヴは、毎日勉強し、他人の好みを聞いて料理を作るような、そんな暮らしを「自由」だと言う。冒頭、ロングボードで出掛けて「他人」と接し、カートで帰ってきたあの時じゃなく、ボードの隣を走る自転車の二人に構われる、面倒なこの時を。ダイアンはカイラとのやりとりにおいて、「美人だからって幸せになれるわけじゃない、ポーカーみたいにいいペアで無いと」と話す。二人はその後に続く他愛ない会話に笑いを爆発させる。「人間関係」は馬鹿馬鹿しくもあるが執着せずにはいられないものとして扱われる。このこと自体が「正方形」の息苦しさ、一人しかまともに入れないのに自分以外の者を求めるという厳しさに通じている。
尤も本作においては、彼らに対する「他人」、例えばカラオケバーやホームセンターの客、法を執行する者などのあまりの「世界」ぶりは少々「近視眼」的、すなわち子どもっぽく感じられないこともない。


冒頭スティーヴを迎えたダイアンは「誕生日が来たら煙草はやめる」と言うが、作中彼女の誕生日は来ない。この映画に描かれるのは、銘々の人生の内のほんの数カ月の間の出来事である。
「わたしはロランス」の終盤のダイナーでの場面を思い出す夕闇迫る台所での一幕、ダイアンはカイラに向かって言う。「この世界に希望はほんのわずかしかない、でも私はそれを選ぶ、自分の選択だから後悔しない」。向かいの家に帰るカイラを窓から見送った彼女は、叫びにならない叫びを発する。それに続くラストシーン、あそこに向かって駆け出すスティーヴの姿こそ、ダイアンの言う、自分がわずかな希望だと思ったものに賭ける、その姿かもしれないと思う。それが人生の内のほんの数分、いや数秒であっても。なんとなれば、エンドロールでラナ・デル・レイが言うように「私達は死に向かっているのだから」。


「わたしはロランス」は教師映画としても良かったけど(彼をクビにしようとする話し合いの場面にドランの主張が表れている)、考えたら別に「教師」じゃなくてもいい。同様に本作のカイラが教師であるということには特に「意味」が無い。見終わった後にドランが居たらなぜ彼女は教師なのかと聞きたかったけど、その問いにこそ意味が無いような気もするし、私はどう思うのか聞き返されそうな気もする。そんな映画だった。