メイキング・オブ・モータウン


ベリー・ゴーディいわく「おれの仕事は才能を最大限、引き出すこと」。スモーキー・ロビンソンを作詞作曲の生徒の第一号とする彼が自身を先生になぞらえることもあり、校長の口から語られる学校の誕生から終焉までの物語といった感もある。エンドクレジットで社歌を楽しそうに歌う二人、冗談にしても「口の動きをチェックしていた」とは君が代かよ!と。生徒ありきじゃなくヒットありきなんだから目的は学校と真逆だけども、適材適所をあてがっていく様には映画「スクール・オブ・ロック」などを思い出した(あれも考えたら教員の話じゃないか・笑)。

車の工場を模して歌手を作り上げていく中、最も養成に時間を掛けたのはやはりスプリームスだそう。しかめ面で歌っていたのを、マナー指導者の手で「貧しい出でも自尊心を持ち、立ち居振る舞いを優雅に、笑顔で歌う」よう教育する。効果は抜群だった。オプラ・ウィンフリーエドサリヴァン・ショーに初登場した彼女達を見た時の興奮を自身の番組で語る映像が面白い。「あんなにglamorでgraceな黒人女性をテレビで見たのは初めてだったから、大勢に電話した、テレビに有色人種が出てる!って」。やがて彼女達は制汗剤のCMに起用されるまでに(つまり、一般の憧れの存在に)なる。

…という辺りでBTSについて書かれた昨今の記事の数々を思い出した。K-POPの下地にモータウンのやり方があるということじゃなく、主にアメリカ国内のアジア系の人々が語る、彼らは世界にアジア人をかっこいいと認識させたという内容について。彼らに重ねて考えると、スプリームスの時にも地均しがあり、更に次に続いたんだろう(ここでは次に続いたのは「かっこいい黒人少年にアフロの女の子達が黄色い声をあげた」ジャクソン5)。作中リー・ダニエルズが「ゴーディは黒人に魔法の粉を振りかけ妖精にして白人の世界へ送り出した」と言っていたけれど、ゴーディの「人生初の教訓」が「黒人の子どもは一人なら可愛いが二人なら脅威」だったことを考えたら第一歩がそうであるのはさもありなんと思う。

それじゃあその先、すなわち妖精の粉を振りかけずとも受け入れられる…という言い方はおかしいな、どこにでも普通に存在するまでに進んできたのかと考えると全然そうじゃないことに気付く。モータウン若い女性に決定権を持たせていたということ(これは「黒人だけじゃなく白人も女性もいた」というふうに語られる)を同様に韓国の文化に引っ張ってきて言うならば「梨泰院クラス」のチョ・イソが思い出されるものだけど、これだって世界において全然そのことが進んでいないからドラマで牽引しようとあんなふうに描いているんだろうから。

「ゴーディは何がポップか…音楽じゃなく、何が面白いかということを知っていた」と語るスティーヴィー・ワンダーは「彼にはビジョンがあったがそれは無難なものだった」とも言う。「枠があり、一線を越えない」モータウンのやり方は、70年代に入り目覚め始めたアーティスト達には枷となる。マーヴィン・ゲイが多重録音という新しい形で「What's Going On」と声を上げたことにつき、現在のゴーディは「まさに芸術だったが止めた」「今なら分かる」と口にする。作中に挿入される、黒人が暴力を振るわれる映像が昔のものなのか今のものなのか私には判然とせず、「ぼくを残虐に罰しないで」とマーヴィンが歌ったあの頃から変わってないじゃないかと改めて衝撃を受けたものだけど、このことと「今なら分かる」という言葉とは関係があるのだろうか?