エレファント・ソング



グザヴィエ・ドランが脚本を読み「これは僕だ」と出演を熱望したという作品。ドランの監督作のようにすこんと抜けた快楽は無いけど、面白く見た。ドランの演技はドランの映画のように「分かりやす」く、それでいて安っぽさは皆無であると再確認した。


オープニング、楽団の「音合わせ」の音、シャンデリアの装飾が鳴る音、拍手、見事な歌声。それら全てが、そこに居る一人の少年に向けられてはいない。母の腕一本も視線でさえも。そのことを知った彼は、ピンクのバラを千切り尽くしてその場を去る。キューバとの字幕に婦人達が使う扇、この場も今日の東京のように蒸し暑いのだろうかと思っていると場面が替わり、真っ白いシーツの中の青年マイケル(グザヴィエ・ドラン)が目覚める。外は雪。これに惹き込まれる。ドランが出演を望んだのもむべなるかな、これも母と息子の物語なのか…と思いきや、話はそこに留まらない。


(以下「ネタばれ」あり)


グリーン院長(ブルース・グリーンウッド)は、姿を消したローレンス医師がマイケルと会っていた部屋で彼と対峙する。グリーンが「勝手知ったる」マイケルに言われるまま、「クローゼット」の奥の箱や鍵の掛かった引き出しの中を探る様子は、彼の頭の中を少しずつ見せてもらっているようだ。
クリスマス・イブのこの日、二人が向かい合う部屋には小ぶりのクリスマスツリーが置かれている。カメラが外に出ると、冒頭映るマイケルの個室(と、おそらく他の全ての個室)を除いて病院内の至る所にツリーが飾られている。共有部のひときわ大きなツリーに、まるで病院全体があの部屋の拡大版のようだと思う。「気が遠くなる」ほどの年月(「5年間」)入院しているマイケルは部屋だけでなく病院とも一体化しており、院内のあらゆることを把握している。彼が「あの時」の象になりうめくと、(ラジエーターを通して、という描写により)院内の皆が何かを感じ取る。


マイケルより先に部屋に入ったグリーンは彼のカルテに目を通しておこうとするが、老眼鏡を家に忘れてきたため読めない。そのまま話を始め、マイケルに「カルテを読んでほしくない」と言われると、自分が読んでいないことをアピールし情報を引き出そうとする。途中家人から「老眼鏡を届けようか」との電話があるが、その声をマイケルは聞いた、あるいは事情を察したろうか?(結局後に家人が老眼鏡を届けに来てこの件はばれてしまう)グリーンが家に帰ろうとしないことも一見有利に働いているが、マイケルは彼が帰らないのは帰りたくないからだと見抜いていたろうか?こういう、想像力を喚起させられる作りが楽しい。
マイケルはグリーンに「過去の言動やカルテじゃなく今の自分を見てほしい」と望む。すなわち「病院の仕事」をして欲しくないということだ。この話の妙は、グリーンが医師として結構適当な人物であり、更に(「医師として」ではなく)「情報を引き出」すよう指示を受け、カルテも読めずに話し合いに臨んだことで、マイケルの要望の通りに近付いてゆくという点。そのことにつき、「心が通じ合ってきた」などと本気らしい調子で口にする彼はどう思っていただろう?


終盤、マイケルの命を救うためにグリーンは部屋を出て走り、薬の保管棚のガラスを破って、すなわち「病院」に逆らって血を流す。事切れそうなマイケルの上着をはだけ、白いシャツの上から胸を必死に押す。アドレナリンを注射する、注ぎ込まれる液体のアップ。この時、何とも言えないエロスを感じて、唐突だけど、私がドランの(映画や演技を問わず)表現に惹かれる理由の一つが分かった。倫理などとは関係なく、愛なるものと性なるものが一緒にあるということ。現実の生活においてそういう在り方がいいと思っているわけではなく、それがとても新鮮で魅力的に感じられるってこと。
ここにきて、この話し合いが、「patient」ではない存在になりたい、触れられたいと願うマイケルの必死の作戦だったことが分かる。血で汚れたシャツの胸元のアップに、満足したようにもとれる顔付き。「君の知性に恐ろしさと美しさを感じる」という言葉を「愛の告白」と受け取るとは、と思っていたら、本当に愛されていただなんて、掛け違いにしかならない愛が切ない。


ドランが強烈なため彼のことばかり書いてしまったけど、これはかつて夫婦だったグリーン院長と看護師長ピーターソン(キャサリン・キーナー)の物語でもある。映画は「数週間後」に査問を受けた二人が語った内容という体裁を取る。グリーンは穏やかな顔で、相手の「patient」という言葉を「彼の名前はマイケル」と訂正しながら喋る。ピーターソンにはいまだ緊張の影が見られる。査問の後、二人は病院に対しそれぞれの表情から読み取れた通りの意を告げる。
グリーンは最後に「昔から精神科医には向いていないと思ってた」と告白する。表立って「悪い」ことをしているわけではない彼が作中幾人もから「責任感が無い」と言われるのは、居るべきではない場所に居たからだろうか?場所を変えるというやり方もあるという結末はいい。一方のピーターソンは、マイケルが口元を震わせ死んだ娘のことに触れると「私は嘘はつかないけど、それは君と話すことではない」ときっぱり言う。彼が「彼女を関与させないで」と訴えるのは、立派な看護師であることを認めていたためだろうか?ともあれ二人は、千切られた花で始まる物語の終わりに、木に咲くいっぱいの花の元へと辿り着くのだった。