たかが世界の終わり



私にとっては「面白くない」映画だった。それが、映画として面白くないのか、描かれていることが面白くないのか、一体何なのか、振り返っても実はよく分からない。


映画は「少し前にどこかにて」との言葉に始まる。母マルティーヌ(ナタリー・バイ)と妹シュザンヌ(レア・セドゥー)が「エアロビをやる時の曲!」「ママは知らないけど大ヒット曲なんだから」とやりとりするのが「恋のマイアヒ」であることや、主人公ルイ(ギャスパー・ウリエル)の携帯電話がスマートフォンじゃないこと等から時代を推測も出来るけど、私は「Mommy マミー」の「違う世界のカナダ」という「SF」設定と同じようなものとして受け取った。「少し前のどこか」の話なのだと。


オープニングは飛行機の中。「これからあの人達に僕の死を伝える旅に出る」なんてことを思いながら、すなわち自分と世界に語り掛けながら、その特徴的な顎を上げ決然とした顔付きのギャスパーのアップに、若さや性急さを感じる。あるいはその姿勢は、後ろの席の子どもが彼に目隠しをしやすいようにだろうか。


家に着くと、ヴィスコンティの画とは真逆の(というのは先月劇場で見た「揺れる大地」の室内での家族の構図があまりに見事だったので)顔のアップ、アップ、アップの嵐で息が詰まりそうになる。そこから続く、画面の多くを占める彼らの首は、時に年輪のように、時に汗を流しながらも鳥肌が立っているかのように見える。「表情」とは違う、コントロールされていない部分が伺える。


ルイを迎える直前に母と妹が「そっちこそ鏡にへばりついて!」などと言い合っているが、母のマニキュアや妹のちょっとしたセリフとメイク落としの仕草で、女の化粧は常にそこにあるわけではないと分かるのがいい。そのことにより、義姉カトリーヌ(マリオン・コティヤール )は常にああいう化粧をしている類の女だということも浮かび上がる。しかし彼女の、チークがあんなにも微妙に入った化粧は巧み過ぎる。私としては、そんなふうに感じてしまうのが有名女優を配されることのデメリットかもしれない。


この映画での母のアイシャドウ、ネイル、ネックレス、指輪、そしてアトマイザーよりも、青のゴム手袋!こそが、「Mommy マミー」で私が心惹かれた母ダイアンのピンクのカラビナにあたるんだと思う。それにドランの映画はグラスを映した画がすごくいい、確か「わたしはロランス」にもあった。本作でも、義姉がルイの方に押しやるワイングラスのカットに心を掴まれた。ただしここには、虐げられている者が「善い人」というわけではないということも語られている。


自分と家族との関係や思いは人それぞれだけど、私は家族の誰かを助けるためなら滝にだって地割れにだって飛び込むかもしれないと想像する反面、全員が死んで初めて自分は自由になれると思いもする、いや幾度となくそう考えてきた。それがこのルイのように若くして死ぬとなれば、もし私ならば、それは映画の終わりの「家から出られずに死ぬ小鳥」となるのに等しい。死ぬことでなく、囚われたまま死ぬことがやるせない。


ルイは、タクシーで家に着いてから一度も「外」に出ていない。食事も兄の車での一幕も「家が伸びた」ようなもの。ずっと家に居なかった彼こそが、家から出られないのだ。でもそんなふうに考えてしまうことこそが、彼がそうであるように、他の人からしたら厭らしい、信用できないと思われてしまう所以なのかもしれない。だって「物理的」に家を出ることの解放感は凄いから。