ジョン・F・ドノヴァンの死と生


私にはとても珍しいタイプの映画に思われた。情報量がとても多く…といっても一見何でもない画に多くの情報が存在しているという意味ではなく、ただただ色々なことが詰め込まれている。理屈や秩序のようなものが感じられない。それはドランが言いたいことをひたすら捲し立てているからではないかと考えた。

本作には成人したルパート(ベン・シュネッツァー)が記者のオードリー(タンディ・ニュートン)に物語るという大枠があり、始め反目していた二人が中盤通じ合うんだけれども、その理由、言ってみれば原動力となるのはルパートの説得。「これは不寛容の問題だ、先進国の贅沢な悩みだと思う?」「僕たちは同じ惑星に住んでいる、僕たちの話だ」と畳み掛けることで心を繋げてしまう。この何という、力技の素晴らしさ。「反転」時に挿入される記者のウインク、あのセンスが私がドランの映画を愛してしまうゆえんかな。

この映画はジョン(キット・ハリントン)の部屋に足を踏み入れたエイミーが「何日閉め切ってたの」と口にし、私達が彼が締め切っていた室内を垣間見るのに始まるが、ドランの密室描写には本当に息が詰まりそうになる。本作の白眉はもちろん金曜日の実家ディナー。ドランの映画では飲食店で大事な話が行われることが多いけれども、それには衆目の中(=風通しのよい場)という意味合いがあるんじゃないかとふと考えた。

すごく違和感を覚えたのが、ルパート(子ども時代をジェイコブ・トレンブレイ)の担任教師が彼とジョン・F・ドノヴァンの文通を信じない点。私なら、「普通」の小学校の先生なら、作中の彼女ならとあらゆる頭になったつもりで考えてみても奇妙に感じる。これはもしかして語りの魔法、じゃなくドランの説得に私も落ちたからだろうか。

ジョンは「変化と真実」を切望しながらもいつか壊れると分かっている仮面をかぶり続けることしかできず、自分のみならず恋人のウィル(クリス・ジルカ)や文通相手のルパートをも傷つけてしまう。それは長じたルパートが言うように世の不寛容ゆえなのである。彼自身は「文通の成果」もあり、「この業界は腐っているから地に足を着けておかなくちゃ」と矛盾を飲み込んでいる母とは異なるやり方で、現実を変えることでサバイブしている。尤もあのラストシーンはドランのかくあれという心持の表れであり、実際にはドランが出演した「IT イット THE END “それ”が見えたら、終わり。」の序章の出来事、あれが今なお続いていると心に留めておかなくてはならないと思う。