彼の見つめる先に



「説明が難しいな、当たり前のことなのに」。見ながら高校生の頃の「恋」を思い出していた。なぜ「彼」だったんだろう?かっこよかったから。一体何がかっこよかったんだろう?なんて、心の奥底にしまっていたものを引っ張り出してきたくなるような映画だった。なぜ(性的に)好きになるのが「男」ばかりなんだろう、ということは普段から考えるけれど、もし私の目が見えなかったら、男女がどうこうを超えて今じゃ想像できないタイプの人に惹かれるかも、なんてことも考えた。


冒頭の授業で、主人公レオは心無いクラスメイトに「何でも人頼み」と言われる(そのうち分かってくるが、そいつこそ周りの奴を巻き込まないと物が言えないのだ)。その日の帰り、彼はいつもジョヴァンナに任せている鍵開けを自分でする。しかし翌日、後ろの席のガブリエルに消しゴムを(ジョヴァンナの手を経て)貸したことで、また鍵を開けてもらうようになる。これは、誰の手も借りるまいとこわばっていたレオの心がほぐれるまでの物語とも言える。映画はレオがガブリエルに補助されながら自転車で走るシーンで終わるが、「5パーセントの奇跡」(感想)しかり、誰かの手助けによる「自立」を肯定的に描く映画っていいと思う。人の手を借りるなよ!とのうんこみたいな言があふれるこの世においては、とりわけ。


レオが交換留学したいと考えるのは、自分を決して一人にはしておかない、特に両親から離れたいと願っているから。とはいえ気になる人が現れた矢先に留学の話を持ち出すなんてと矛盾も感じ、若い頃ってそうかもしれないなどと思っていたんだけれども、考えてみれば「恋愛」と「自立」には通じるところがある。恋愛だって、誰かを受け入れる、受け入れられるという点で、多くの人は手助けし合って、寄り掛かり合って生きていると言えるわけだから、自立だってそういうふうでいいのではないか。レオが恋愛と自立を同時に前進させるのはさもありなん、なのだ。


思春期のあれこれがとても「普通」に描かれているのがよかった、これって稀有なこと。彼らが会話において明らかに嘘と分かるごまかしをしたりストレートに持ちかけたりするのが懐かしかった。レオとジョヴァンナが疎んじるカリーナだって、私には好ましく映った。三人が互いに「え〜つまんない!」と言える、あの若さよ。映画館にて、レオとガブリエルはあの後、尚も「しっ!」とやられて居づらくなったかもしれない、最後まで映画を見られなかったかもしれない。映画はどの時々にせよ、「その後」は描かない。しかしそれがまた、思春期の「普通」ではないか。


面白いのは、全裸で並んでのシャワー室においては、レオとガブリエルのいわば立場が逆転するところ。レオはガブリエルのパーカーにくるまって興奮したが、今度はガブリエルが興奮する。これって実はどんな関係においてもそうだろう、相手を駆り立てるものは自分のそれとは違う。逆転と言えば、二度目の、作中最後のキスシーンでは、レオは目を開け、ガブリエルは閉じている。それから、キスが「これからは同じものを見られる」という魔法だったかのように、二人は共に目を開け抱き合う。あの抱擁、素晴らしかった。