シェイプ・オブ・ウォーター



映画の始め、「最もsensitiveな研究対象だ」とのセリフで登場するのは半魚人…かと思いきやマイケル・シャノン演じるストリックランドである(帽子を取るシャノンの姿にあまりに深く息を吸い込んでしまい隣の人に申し訳ない程だった・笑)。振り返るとこの場で起こったのは「モンスターの登場」と「女と男の出会い」である。観賞直後にはイライザ(サリー・ホーキンス)と半魚人(ダグ・ジョーンズ)の時間をもっと見たかったと思ったものだけど、デル・トロは、自分が願った物語の結末に必要なのは彼ら、いや私達をこそ描くことだと考えたのかもしれない。


半魚人がジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)の猫を食べるのは、ホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)の「生のたんぱく質も必要だ」との言を誰も聞いておらず適切なケアが出来ていなかったからではないだろうか(終盤彼が具合を悪くするのもこの後なまものを食べなかったからではないだろうか)。そうであってもなくても、ホイト元帥(ニック・サーシー)をトップとして上の者に声を奪われた者ばかりのかの地において、最も声を持たないと言えるのが彼であり、これはそんな者だけが自分にふさわしい居場所を得られた物語とも取れる。


物語は緑色の中で眠っていたイライザが赤色で目覚める、いや目覚めると赤色が在るのに始まる。チョコレート工場の火事についてジャイルズはどう言っていたっけ、「悲劇による甘い愉しみ」とか何とか。勤務先の研究所に向かうバスの窓から見える、予感のようなささやかな赤い光が、彼とまぐわった晩にははっきりと流れゆく。とはいえ私が一番印象的だった色は、イライザが彼に与えるアメリカの赤玉卵の殻の色。肌色のようで官能的で、透明な鍋の中のアップのカットなど素晴らしかった。


イライザが桟橋で「雨が降れば海への門が開く」との表示を見るシーン、雨の日に再びそこを訪れて確認するシーンで、これは「E.T.」なのだと気付いた(ここが通信機を置く場所ってこと)。「E.T.」は、全ての存在は生きるべき場所で生きねばならない、互いにそれを認めることで大人にならねばならないという話だが、この物語は、そうした画一的な大人にはならなくていいと言ってくれる。代償として、かの地の人々は孤独な道のりを歩むことになるわけだけども。そこでふと思い出されるのがイライザが毎日文句を言われても出勤時間を早めないという描写で、遅刻をしているわけじゃなくても、彼女がゼルダオクタヴィア・スペンサー)に「優遇」されることで、間に合ったはずの誰かが遅刻になってしまっていたかもしれない。それは、誰かがこの世をどうにかこうにか(時には死ぬことにより)すり抜けたことによって他の誰かが余計にえらいことになってしまうという、この映画の結末にも似ている。


イライザと半魚人よりも、モンスターたるストリックランドよりも、私の心にはジャイルズと博士が残った。ジャイルズが、「未来はそこにある」と大きく書いた、書かされた、自らの「最高傑作」をチェーンのパイ店のカウンターに置いて帰る場面には涙があふれた。彼はあそこで未来に進むことを、あるいは未来に進む夢を見ることすらやめて、隣人の夢に協力すると決めたんである。一方の博士はイライザを清掃スタッフとしてしか知らない頃からきちんと会釈をする人間。英語での合言葉のシーンに一度目は笑ってしまったけれど、二度目は笑えず、三度目にはもう「ディミトリ」は英語を口にしない。終盤「同志」にやって来られる場面では、武器を隠せないからああいうふうにナイフを持つしかないわけだけど、あれは「男じゃない」格好だ。「男じゃない」からというわけじゃなく、露出しているからというわけじゃなく、妙にセクシーに感じられてしょうがなかった。