帰らない日曜日


原題のMothering Sundayとはそうか、使用人が実家に帰るための休み、いわば藪入りのことかと見始めると、主人公「ジェーン・フェアチャイルド」(オデッサ・ヤング)は孤児院出身のため(「孤児に凝った名前なんてつけない」)帰る家が無いと分かる。メイド仲間のミリー(パッツィ・フェラン)や雇い主のニヴン夫人(オリヴィア・コールマン)はそれはいいと羨む物言いをするが、そこに込められているのは彼女達の気持ち、真実であり、ジェーンの中に根付かせることは彼女自身にしかできない。あの晩それを我が物にした時が、彼女が作家になった、最も大きな瞬間だったに違いない。

ポール(ジョシュ・オコナー)いわく、書くとは「記憶を呼び起こし心の中に描き、言葉でもって再現する」こと。彼は君ならやれる、自分のためにやるんだと訴える。その言葉を思い出したジェーンはメモの続きに彼のペンで書き付けるのだった、まず、彼が語った昔々の物語から。例えばあの日、窓の外に見えるポールの兄二人は、彼の話を聞いた彼女の筆致が生み出したものであり、ここには誰かの記憶は語られることによって他の誰かのものになり、言葉にすることで更に外へ出ていくことが示されている(だからポールは登場時よりその口元が強調されている)。同時にジェーンはお話作りも実は得意であることが、「もし今、エマがやってきたら」のくだりに表れている。

deviceと無縁なジェーンはMothering Sundayをどう過ごすか。彼女は好きな人と会った。「失うもののない」彼女にとってそれは財産になった。後に恋人となるドナルドとの会話には当初その経験からくるものが多く含まれている。「もっとゆっくり着替えて、男の人が服を着る姿が見たい、それに順番がおかしい」「下だけ真っ裸は変だろ、白人の旦那様は違うのかもしれないけど」。人は過去によって作られることがここに表れている。ドナルドはそうして記憶を貯めこんできた彼女を愛していた。彼の「もっと話す時間があれば」とは最高の言葉の一つだろう。

(以下少々「ネタバレ」しています)

エバ・ユッソン監督の前作「バハールの涙」は、バハールが主役ながらその真実を書かねばと最前線に同行する記者(エマニュエル・ベルコ)の物語でもあった。本作の原作小説は未読だけれど、これもまた、真実を語れない人のためにそれを残す者の話だと言える。ただしこちらでは明確に、それは自身のために。予告でも印象的だったポールの「さよなら」は、世界でただ一人真実を明かすことのできたジェーンへの…彼女一人だけに真実を明かすことができた世界への別れの挨拶であった。彼が天に昇っていく間、彼女が裸でお屋敷を探検し本やペンを取りパイとビールをむさぼるのは、まるで語れない者達の空気を攪拌して身に着けて外に出すための準備のような、儀式のような行為に私には見えた。