港町



映画が始まったと気付かなかった。上映前に流れた予告編が一本きり(想田監督の次作「ザ・ビッグハウス」)と少なかったからとはいえ、自分でもびっくりした。それが何とも気持ちがよくて、映画のオープニングを意識することは私には少々のストレスでもあると分かった。


上映後のトークで監督が「牛窓の人々と出会って別れる映画」と言っていたけれど、「こんにちは」に始まり「さようなら」で終わるこのドキュメンタリーは、撮影者と被写体のコミュニケーションの記録である。やはり監督が言っていたようにクミさんは撮影者がいたからあの話をしたのであり、終盤呼んでも聞こえない船上のワイちゃんもそう、呼んでいないのと呼んでも聞こえないのとでは一見同じでも違う存在だと思う。


監督は「デザインした気がしない」とも言っていたけれど(おこがましいけど見ながらそうだろうと思った!)、この「方法と経験が召喚した」とでも言うような映像には、まるで自分がその中に居るように魅了された。ワイちゃんの「耳が遠いから」にカメラが寄ったあの瞬間から、私が撮影しているような気持ちにもなった。手元を撮っている時は手元を撮られていると思ってるな、向かいの船を撮っている時には向こうからも見られてるな、などと思う。次に何を映すかは分からないので緊張感がある。夢の中で自分と違う人になっている時のような、奇妙な感じ。


ワイちゃんの一人での漁を皮切りに魚の行方を追っていくと人々のやりとりが映し出される。市場でのせりや魚屋の店頭、配達先などの教科書的な流通経路だけじゃなく、あらを猫達にやることで猫が愛想良くなり近所の人の猫に対する見方が変わる、観光客も増えるなんていう、いわば枝葉末節もある。「舞台」の半分ほどは「道」で、誰かと話をしていると他の誰かが通りかかる、というのが奇跡のように繰り返される。


勝手かつ感傷的な感想としては、撮影者と人々の交流の記録である本作において、魚を介した人々のコミュニケーションが捉えられる中、どこに居ても入ってくるクミさんがアウトサイダーのように見えてくる。海なんか映すより、と背を向けて「通わせてもらえなかった小学校」の跡に建つ病院に連れて行く彼女の手にした魚だけ行き場がなく物語が終わる。その場を去る撮影者が代わりのように受け取るのは、それとは違う、よそゆきの魚である。そういう映画でもあった。



イメージフォーラムの外壁に貼られていたポスターと、トークの後でパンフレットにもらったサイン。くだらない一言感想を伝えられてうれしかった(「子どもの影が全く無いので子どもが学校に行っている間の世界みたいだった」というのと「作中魚を食べる姿が映るのが猫だけというのが面白かった」というの…笑)