秘密の森の、その向こう


映画は時計の針の音、すなわち時は否応なしに流れていくということを示しているのに始まる。ネリー(ジョセフィーヌ・サンス)の施設のおばあちゃん達への別れの挨拶は、以前からの習慣だったとしても今はより念入りにしているんじゃないかと後に考える。「あれが最後だと分からなかった」とは時が流れる中では当然のことで、後に「マリオン」(ガブリエル・サンス)に未来が怖くないのと問われて怖いと答える彼女のために、世界がほんの少し時を止めてくれたのだと私はこの物語を受け取った。「さよなら」を言えるように、それからの未知に備えられるように。

車の前後に座った母娘、許可されて開けたスナックをシャシャシャと食べた娘が母(ニナ・ミュリス)の口へも持っていくと母はシャク、シャク、シャク、更に差し出されたストローからジュースを飲んでふと微笑む、あの横顔の素晴らしさ。二人とも一人っ子である(私と母もそうなので親近感を覚える)。ひとり遊び用のボールをなくしたネリーは大きな木の枝を運んでいるマリオンに出会う。手術を控えて心細いであろう彼女と共に、小屋を作りゲームに劇ごっこと一人じゃできないことをする。「秘密は隠してるわけじゃ無く言う相手がいないってこと」ならば、「女優になりたい」はあのとき秘密じゃなくなったのか。そして誕生日の歌の後の「もう一回」。

ネリーはマリオンとクレープを作ったり彼女の誕生日ケーキのろうそくに火をつけたりするが、それらを食べる場面はない。個人的には、子どもの頃は(幸運だったことに)いつも食べるばかりなので却って用意する方に興味があったのを思い出した。栄養がまあまああるであろうスープをげーっと吐き出して遊ぶのは、大仰に言えば「実になる」ことへの反抗のようにも感じられ、「オンネリとアンネリ」シリーズを思い出した。時が未来へ向かっていないことも含め、役に立つことばかりが求められる昨今、この物語の「止まっている」豊かさに涙がこぼれそうになった。

当初そこが「おばあちゃんのうち」と気付いたネリーは怖くなり急いで帰るが、パパ(ステファン・バルペンヌ)の姿を認めると恐怖が消え、翌日からまた森を抜けて出かけていく。古より子の冒険の中心となるのは母親だったから、この役どころがよかった(もしかするとシアマ監督が好きだというジブリ作品からの父親像なのかな、あまり見ていないから分からない)。ネリーが「ママにはそこにいたくない、みたいな時があった」と見抜いているのには、子どもは何も見えないとされているけどそうじゃない、母親は子どもと常に一緒にいたいとされているけどそうじゃない、という双方の奥行がありこれもまた、勿論フェミニズム映画なのだと確信を持てる。