わすれな草



ドイツの映画監督ダーヴィット・ジーヴェキングが、自身の母の認知症に向き合う家族の姿を収めたドキュメンタリー。2013年作。


予告編からは母グレーテルの人生を紐解き焼き付けた作品といった印象も受けたけど、これはそういう映画ではない。息子ダーヴィットが彼女の過去を「掘り返す」のはまず「意識が覚醒するかも」と考えたからであり、あくまでも資料や当時の恋人が語る内容が示されるだけ、それこそ母のかつてを想像して軽く柔らかな絵を描くような感じである。


グレーテルが「僕達の世界から遠ざかっている」こともあり、見ていると「分からない」ことが次から次へと出てくる。例えば父マルテは「彼女は新顔のお前(ダーヴィット)の言うことなら聞く、僕は古顔だから」と言うが(認知症の介護は「相手に無理強いする」ことだと表現するのが聞いていて辛い)、グレーテルの「伴侶への愛は冷めるが子は愛し続けられる」「結婚をやめたかった」なんて言葉を事前に「知って」いると、マルテいわくの「日記を読むと背筋が凍る」じゃないけど、彼女はどう思っているのだろう、あるいは何か思っているのだろうか、と思う。結局のところ、「あるべき姿」なんて無いのだと当たり前の結論に達する。大騒ぎする子ども達に耳を塞ぐグレーテルに、ダーヴィットのナレーション「反権威主義で子どもを育てたので孫には困っている」とは俗な言い方だけど、このひとこまにも強くそう思った。


全ての映画はメタファーである、というのを逆手に取った?映画も昨今あったものだけど、この映画にはそのことに関して、私が初めて気付かされた、ドキュメンタリーならではの面白さがあった。例えばグレーテルが姉の家で二つのケーキのどちらを選ぼうか迷うが、「昔は必ず二つ食べていた」というのは、マルテいわく彼女がかつては「二人を同時に愛せると思っていた」ことを表しているようだ…と思った瞬間、いや、何事もそうするように努めていたのかもしれない、その人そのもののすることにメタファーなんか無い、と思う。マルテの滞在するスイスに到着し車から降りたグレーテルにダーヴィットが「長旅だったね」と声を掛けると彼女は「これから旅に出るの?」と返す、息子は「もう終わったよ」と言う、なんて面白い会話だろうと思うけど、「面白い」んじゃない、本当にそうだからそんな言葉が出てくるのだ。


「政治活動のためビザが下りず」夫婦でドイツに戻ったグレーテルは緑の党の結成に関わり、女性グループも創設する。その仲間に会いに行くシーンがいい(ここではケーキが一つ、出る)。「男性についてとことん議論したおかげで結婚を続けられた」と一人が言うと、「私だけは離婚したけど」と他の一人が言う、でもって「離婚パーティしたよね」。議論と仲間に支えられていれば、どんな選択だってありなのかもしれない。部屋の隅の、男性のマネキン人形がトレイを持っているふうのテーブルと、その隣の椅子で場面の最後に「起きる」キスもよかった。


かつてグレーテルは、自分の思っていることをもっと口にしなければという仲間の意見に「あなたの言う感情の表出とは、相手をコントロールしようとすることだ」と答えたという。現在、寝てばかり、寝たがってばかりの彼女を運動させようと誘うセラピストの「痛いところはある?」に「痛いところは教えない」なんて返すのは、冗談めかしていたけれど、信条の発露のような気もした。一方で添い寝する夫との「ここが痛いんじゃない?」「痛くない」「よかった」なんてやりとりには、グレーテルの新たな優しさの形とでもいうものを感じた。ちなみにダーヴィットの「起きたばかりじゃないか(だから起きてくれ)」に「起きたばかりだから眠たい」と返すのには笑ってしまった、確かにそういうこともありそうだ。