ドライビング・バニー


子を愛しあれこれする母親の表象は多いが「『ダメ』な自分のせいで」子と上手くいかない母親のそれは少ないから、こういう作品があるのはよい。ただ男性が主人公のそうした映画の多くが物語の柱を複数据えているのに対し(スポーツとかね、女性が主人公のものも「ママはレスリング・クイーン」「ブルーズド」などそうした作品が目につく)、ここでは頑張りが一つところにしか向けられないから辛い。バニー(エシー・デイヴィス)の善意だけじゃなくエネルギーも機転も全てがそのことに費やされるのを見るのが悲しい。

ちなみに「怒りを抑えられない」女の映画も近年ぼちぼち出てきているけれど(大概主人公は中年じゃなく年若い者だけど/男が主人公の場合、同じような性分であっても「怒り」というテーマを打ち出さずに済ませているけれど)バニーが姪のトーニャ(トーマシン・マッケンジー)にそう言うのは、自身のしたことについての対外的な、あるいは自分への理由付けにも思われた。どれだけ頑張ろうと何一つ得られないという理不尽さを飲み込むにはそうしたものが必要だろう。

オープニング、陽に、というより社会に「晒されている」感のあるバニーの顔。警察の登場で彼女達の糊口の手段である車の窓拭きによる小銭稼ぎは違法行為だと私達にもはっきりするが、例えば彼女は身を寄せている妹の(夫が所有する)家では賃金をもらわなきゃおかしいほど家事をしている、労働って何なんだと考えた時、その違法行為は余裕のある人からない人へお金が流れる自然なことのようにも見える。「投資用ですか、ご自身用ですか」の家ならそりゃ使っていいと思うだろう。

それにしても、よくよく知ってはいるが、あるいは分かりはするがスクリーンであまり見ない事象というのがまだまだあるものだ。この映画ならワイヤーの飛び出すほど擦り切れたブラジャー。バニーはそうした下着の上に「面接に受かる服の会」…とチラシに見た時に少し笑ってしまった自分を後に恥じた…で調達した「魔法の服」を装う。

母バニーの言うことをその都度信じる幼い妹と違い、兄は何度も失望させられてきた経験から当初ぶすっとしている。恋人なら別れればよいが好きな保護者ならとその辛さを思う。父にも、母にも傷つけられたトーニャは二人と同じ大人であるバニーを頼って付いていくが、世界は、狭義には現在のニュージーランドは、大人が大人たれるほどのものではないと知る。害を被るのは若者や子ども。

(以下少々「ネタバレ」しています)

物語の最後、トーニャはハンドルを握って一人発つ。何も持たない子どもが行く当てもなく部屋に閉じこもるようにバニーも立て籠もることしかできなかったが、物語的には自身の命と引き換えに(彼女のその後は分からないが)少女を世界に送り出したと言える。その処遇が私には極めて辛かった。