ヒトラーに盗られたうさぎ


ジュディス・カーの自伝「ヒトラーにぬすまれたももいろうさぎ」は未読。ベルリンから逃れたパリで、アンナの母(カーラ・ジュリ)が自分達とは違う非・ユダヤ人かつ裕福な家庭の婦人と連弾をする場面で胸がいっぱいになった。単に音楽に心躍らされたわけじゃない、「おちゃのじかんにきたとら」のとらが悪者でも何でもない理由がそこにあったから。誰がどうなるか分からない、世界はめくるめくものなのだ。

映画はカーニバルの仮装パーティに始まる。アンナの兄マックスは怪傑ゾロの格好をして「ゾロらしい」振る舞いをする。アンナは物乞いの格好をして、後に言うことには「お菓子がいつもより美味しく思えた」。そこへナチスの軍服姿の少年達が入ってきて「ナチスらし」く振る舞う。私には一瞬、それが仮装なのか否か分からなかった(帰宅後に兄が仮装であるとちゃんと口にする)。それらしい格好をしてそれらしい言動をすることと「それ」との違いは何なのか。人間の足元の不確かさを示唆する面白いオープニングだ。

冒頭、帰宅するや床に大の字になり遊びで濡れた衣服を脱がせてもらうアンナの姿に、私も子どもの頃はあんなふうだったと思う。スイスを発つ朝にも、事情は違うが親友と二人で今度はうつぶせになっている姿に、起きているのに体を横たえているというのは強い意思表示の一つなんじゃないかと考えた。彼女は自分が子どもであると分かっていて、子どもであると言っているのだ。訪ねてきた叔父に「指で押してると知ってた」と告げる時、彼女が子どもなりに「子どもらしい」振る舞いをしていたことが分かる。カメラが脇の塀にぐっと寄って、世界を窮屈に見せる。

湖のほとりで、まだ十幾つの兄が妹に向かって「時代が変わったんだ」と諭す。子どもがそんなこと、悪い方に変わったから言わなければならないのだ。父(オリバー・マスッチ)と叔父は人の善性を信じていると語り合う。この物語は私には、「ヒトラー」が時代を悪い方へ押しやる力と人々が善性でもってそれを押し返す力とが、振り子や宙の中のボールをそうするように世を揺らす様を描いているように思われた。映画は陸を目指す海上で終わり、いわば結果は作中では語られない、語る必要がない。それは私達によるから。

スイスの学校もパリの学校も、授業はつまらないがその描写は様々な価値観の表れが入り混じっており面白い(当たり前のことだけど、作中の授業が面白いからといってその映画が面白いとは全くもって限らない)。ナポレオンにつき年表を暗記しているだけとアンナから聞いた父は本を読み直して自身のナポレオンの物語を語り、母はやはり自分の世界のナポレオンについて話をする。このことが一家の生存に繋がるんだから分からないものだ。