楽しく見たけれど、あまりに「最大公約数」的な話だと思った。そんな物語は星の数ほどあれど、少々反発を覚えるほどそう感じたのは、「よくある話」だと説明するセリフが私には目立ってしまっていたから、それ以上の言葉が作中に無かったからかな。
母と娘の物語としては「私はあなたに最高の状態でいてほしい」「今が最高なら?」。自分が幸せだと思うこと、あるいは今はこうしたい、こうしかできない、ということと母親が思うそれとが食い違うために衝突が起きるという、「よくある話」である。冒頭レディ・バード(シアーシャ・ローナン)は、母(ローリー・メトカーフ)ともう同じ車に乗っていられない、すなわちもう同じ道を進めないと飛び降りる。映画の終わりの彼女の「運転席では町が違って見える」という、一人で、自分で運転してこその景色があるという発見は面白い。飛行場近くでの母の運転シーンは辛気くさすぎるし不必要だと思ったものだけど、振り返るとあれは彼女の実に、心まで一人での、初めてのドライブなのかもしれない。
「愛と注意を払うこととは同じ」だってそう、それを疎む者が誰よりもそれにこだわっているなど「よくある話」、口に出して言われるまでもない。町に留まりプロムにも興味のない同級生達に対し、レディ・バードこそはサクラメントの誰かが着ていたドレスでプロムに出掛ける。このくだりは、仲直りしたジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)との「チーズには色々なサイズがあって…」辺りから涙があふれてしまった。この映画には、どうしてもセックスが根底にあってしまう二人、以外の関係において、片方が片方の胸で泣く場面がたくさんある。私にはあるかな、いやせめて、あったかなと考えた。
レディ・バードの「ペンある?」にジュリーはくるりと振り返りリュックのポケットを開けさせる。人生に、誰かとポケットを開けさせる仲になる機会がどれだけあるだろう。二人がオナニーについて喋る時に壁に上げる両の足(「東ベルリンから来た女」にも主人公じゃないけど女の子達が意味は違えどああしている場面があった、私も高校生の頃にああいう格好で友達と撮った写真がある)、女生徒が車座になる時のあぐら、レディ・バードがダニー(ルーカス・ヘッジズ)と星を見ながら寝転がる時の、彼の脚に無造作に、あるいは無造作なふうに重ねた脚。女の脚が自由闊達に見える映画っていい。
シスター(ロイス・スミス)とレディ・バードの場面には、キルケゴールの恋愛遍歴は面白いなんて話す(そりゃそうだろう・笑)長い道のりをやって来た者とこれからの者とが対峙する楽しさがある。「あなたには表現力がある」「興味がなかっただけでしょう」、「あれには笑った、センスがある」「実は四十年前から結婚してる(と自身も「ユーモア」で返す)」。卒業式で学校が「レディ・バード」と呼んでくれたのは彼女の指示か、あるいは単に希望すればそれが通るのだろうか。
レディ・バードの高校生活最後の一年は少々奇妙にも映る。あんなにケチをつけていたのにここでのあれこれを望んでるじゃないかと。これには、時代も場所も違うし引き寄せちゃだめだと思うも自分を重ねてしまった。上京しなきゃ話にならないと思いつつ、高校の近くの閑静な住宅街から通う友達が羨ましかったものだ。母親のリサイクルショップでの赤ちゃんについてのやりとりや神父を患者として迎える場面も、両親が地元の学校の教員だった昔の思い出に重なった。母は私が大人になってから、今でもこの土地に馴染めないと言っていたから、この映画の母も、町に根付いて言えるのは望もうと望むまいとと言っていいのではと考えた。