万引き家族



この映画と「フロリダ・プロジェクト」(感想)には、テーマも話も違えど幾つもの共通項がある。家族で見上げる花火、母と子のげっぷ(花火は見えずげっぷをするのはおそらく初めてらしきところが「日本人の特性」なのかもしれない・笑)、中でも最も強く心に残るのは、冒頭仕事に出掛ける父ちゃん(リリー・フランキー)や終盤飛び降りる祥太(城桧吏)の頭上を走る、すなわち彼らの脇をすり抜ける新幹線。これは「フロリダ・プロジェクト」のハイウェイやヘリコプターに通じる。世の中の「多数」は彼らに気付きもしないということだ。


子どもの虐待の裏に太く流れるテーマは父ちゃんの感傷である。作中最も切なく聞こえるセリフは「いつか」。「お父さん」という呼び方にこだわる描写をメインに、建設中の一室での「ただいま、祥太」(最後に振り返るとこの「祥太」に彼自身が重なる)、売らなかった釣り竿、ふくらませたレジ袋と全編を感傷が彩る。母ちゃん(安藤サクラ)とりん、亜紀(松岡茉優)とりん、亜紀とおばあちゃん(樹木希林)など女同士はべったりと接触し混然一体にも見えるが、男と男は海にでも行った時以外はこぶししか触れ合わない。これは父ちゃんがそういう人であるというより、その性、年齢によるものとして描かれているように感じられた。


それを踏まえるとこの映画は、万引き、いや自分より弱い者に万引きをさせることを悪いこととして描いているように思われる。妹にそれをさせることへの違和感と他者(柄本明)の言葉、大人の手にした札束に目覚めた祥太が「わざとやった」行為により、父ちゃんは代償として最大の希望を失う(同時に祥太の大切なもの、つまり自分との繋がりをも奪う)。子どもの安全とは違い「打ち砕かれても仕方のないもの」として大人の希望を描いているようにも思われた。強調される父ちゃんの悲哀を観客は感傷的に楽しむことができる。感傷なんてものにひたれるのは大人だけなのだ、子どもにはそんな余裕はないのだ、と訴えるための手段としての万引きとでも言おうか。


面白く見たけれど、私はそれほど心惹かれなかった。第一に「男」の(ということは「女」の)描き方。警察の事情徴収での「りんは信代が拾った」なんてセリフからも分かるように(実際には彼が連れて来たのだから、「松戸のパチンコ屋」で祥太を「拾った」のも息子に「捨てられた」のであろうおばあちゃんを「拾った」のも彼だと推測される)、この映画は父ちゃんを「ダメな男」として描いているが、彼が一切家事をせず、風呂から「いつもびたびたであがる」というような場面はそのこととは関係ないように見える。ああいう描写にはうんざりさせられる。


第二にセリフの機微。例えば父ちゃんの「役に立つ方があの子も居やすい」は、私には、彼が子どもに対する話し方を知らないということの描写として解釈しなければ馴染めないセリフだが、作り手にはそういう意図が無いように思われ、宙ぶらりんな妙な感じに陥る。祥太が言われたという「ここにある間は誰のものでもない」だって、父ちゃんがそう言ったということ以上の何かは感じられず、イタリア映画祭で見たジョナス・カルピニャーノ「地中海」の「今は自分のもの」という、私をしびれさせたセリフを懐かしく思い起こした。もしかして母語だから敏感に反応してしまうのだろうか。「レインコートを着てシャワーを浴び」てもどんなお湯だかよく分からないから。